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こうしてみなし子の有為は、この山奥の不思議なお屋敷で働くこととなった。狐の女童は名前を「鈴蘭」といった。鈴蘭は有為と同じくらいの年らしく、女中に昇格したばかりだそうだ。実は有為を山でみつけて、お屋敷まで無事連れてきた功績で昇格したらしい。あのきれいな女の人がこのお屋敷のあるじで、「天河さま」とか「一位さま」とか呼ばれているようだ。そう呼んでよいのは上女中(上臈というのだと鈴蘭に教えてもらった)や家来の男の人(文人や帯刀というそうだ)で、下女中(下臈)や下男(白丁)や見習いの童たちは「お館さま」と呼ぶ、と言われた。有為は見習いにしてもらったつもりだった。鈴蘭にお屋敷の中を案内してもらって、たくさんの人に会って挨拶した。鈴蘭は親もそのまた親の代から、ずっとこのお屋敷で働いているので、小さい頃からよく知っているのだそうだ。お館さまとも直接話ができるのだと。
新参者でこんな大きなお屋敷で働いたことなどない有為は、とにかく他の人に迷惑をかけないよう、一生懸命お仕事を覚えてがんばろうと思った。水汲みや掃除ならなんとかできるだろう。洗濯や炊事の下ごしらえなどの水仕も覚えていくつもりだ。鈴蘭が仲良くしてくれるのはありがたいが、有為は見習いなので下働きのはずだ。最後に鈴蘭から中臈の朝顔という人に引き合わされ、挨拶した。朝顔は「白妙」という建物の係だそうだ。このお屋敷は広くて、いくつもの棟にわかれている。渡り廊下で複雑につながっているので、有為にはさっぱり覚えられない。
「有為さまはこの「白妙」にお住まいいただきます。これから、どうぞよろしくお願い申し上げます」
朝顔は手をついて深く頭をさげた。
「鈴蘭も「白妙」の係になりました。有為さまのお側相手を勤めますので、よろしくお願い申し上げます。ほかには、だれそれやかれこれや…」
有為は目を白黒させた。有為はここで働くはずだ。お客さまではないのだ。朝顔は大きな勘違いをしている。それを口に出そうとしたら、戸障子を叩く音がした。鈴蘭が戸を少しだけあけて答えると、かわいらしい女の子の声で
「天河さまがご夕飯をごいっしょにとお招きです」
と言っている。
「陽炎ですよ、お館さまのお側付きです。中に入れてよろしいですか」
朝顔が言うので、有為はだまったままこくこくした。戸をあけて入ってくるのを見ると、これも鈴蘭と同じ年頃の女の子だ。有為とも同じくらいということだ。賢そうなきれいな顔をして、すらりと座ると、それは美しい身ごなしで手をついて礼をした。
「陽炎と申します。奥の宮の中臈を勤めおります。有為さまにはよろしくお見知り置きくださいますよう、お願い申し上げます」
奥の宮はお館さまのお住まいのことだ。あの夢に出てくる庭と広縁のある座敷も奥の宮にある。どうして有為はあの部屋と庭の夢を見たのだろう。不思議でしかたがない。陽炎は中臈なので朝顔と同格だが、お館さまを「天河さま」と呼べるお許しを受けているそうだ。直のお仕えなので特に許されているとのこと。
ところで、先ほどから中臈にお辞儀をされているのがおかしい。有為は新参で見習いの使用人だ。よくて女童、それどころか下女だろうに。おどおどと頭を畳に押し付けると、陽炎はくすりと笑って
「ではのちほど、お迎えにあがりますゆえ、お仕度のほどよろしくお願いいたします」
後半は朝顔に向けて言い、やはりきれいなお辞儀をして立って行った。
「さあ、お湯浴みをいたしましょうね」
朝顔が鈴蘭に目くばせした。
「わたくしがお着替えをお持ちしますので、有為さまは先に湯殿の方へおいでください」
ささ、と鈴蘭が立って有為の手を引く。つられて立ち上がったものの
「あの、オレ…ワタシ、はここで働くのでは」
「まあ、何をおっしゃるかと思えば、有為さまのお仕事はお館さまのお相手ですよ」
朝顔が微笑み、鈴蘭がこっくりする。
「じゃあ、奥の宮で働くので?」
「いえいえ、有為さまのお住まいはこちらでよろしいのです。いずれは奥の宮にお移りになるかもしれませんが。今はお館さまのお呼びがあった時、奥の宮に上がってお相手をしてさしあげてくださいまし」
昨日と同じように湯殿で係の女中方(鈴蘭と同じく下臈だそうだ)に磨かれて、今日も髪を洗われ、よい匂いの髪油をつけられ、何度もくしけずられ、ぼうぼうにもつれた有為の髪もさらさらのすべすべになった。
「少しおぐしをお揃えいたしましょう」
下臈の一人が腰かけた有為の背後に立ってよく光る剃刀をかまえたので、有為はぎゅっと目をつむった。とかした髪を切りそろえてくれるようだ。いつも適当に断ち鋏でざくざく切っていたのだから、不揃いで毛先も痛んでいるだろう。背中くらいにのびていた髪を肩ほどにそろえてもらった。目をつむっている間に眉も整えてくれた。鏡を差し出されてみると、見覚えのない女の子がびっくりした顔で見返してくる。
「これがオレ…ワタシ?」
「おかわいらしいですよ」
下臈方がみなうなずいてくれた。ちょうどそこへ朝顔が着替えを持ってきて、湯帷子から小袖に着替えた。白い綿の小袖は対丈でそこに月白の錦の細帯を結び、うえから麻の帷子を羽織る。帷子には銀泥で流水の模様が描かれている。
「こんなりっぱなものを、もったいない」
有為が身を縮めると、朝顔はかぶりをふって
「まだお年若で、慣れておいでにならないので、ごく軽装なのですよ」
と言った。とかした前髪を両鬢で白糸で結わくと、朝顔はちょっと離れてみて
「おかわいらしい。お館さまもさぞお心待ちのことでしょう」
湯殿を出ると渡り廊下に陽炎が待っていた。仕度が遅くて待たせてしまったのだと、有為は青くなったが、陽炎はにこにこしてお辞儀をするので、朝顔とふたり陽炎に導かれて奥の宮に向かった。今度も道筋はちっともわからなかった。
案内された座敷は、あの庭に面した部屋ではなかった。真ん中に広い卓、座は向かい合わせではなくて、卓の角をはさんだ隣。お館さまは綸子の白小袖に濃き色の袴をつけ五つ衣というのだろう何枚も衣をかさねて、敷物の上に端座して待っていた。有為が入ってくると腰を浮かすほど待ちわびていたらしい様子だった。
「あの、ちょっとみせて」
横に立つ有為の両手をとると、頭からつま先まで何度も見渡して、ほうっと吐息をついた。それからきれいな目にみるみる涙がもりあがって、お館さまは有為を袖屏風の中に閉じ込めた。
「真澄」
よい匂いの袖がぎゅっと有為を抱き、お館さまがふるえているのが伝わってきた。有為はとても困った。有為は「真澄」という人じゃない。お館さまの知り人に似ているから、ここに置いてくれたのだろうか。誰かが軽く咳払いをしたので、袖が開いて、有為は自分の席に座っていた。隣に座ったお館さまもきちんと衣を直して、にっこりした。ただ目のふちが赤かった。
「ごはんをいっしょに食べてね。おいしいといいけれど」
卓の上にはやはり多すぎるほどのごちそうが並んでいる。有為は朝顔がよそってくれた白いお米のごはんとおつゆ、野菜の煮物を食べた。
「もっと食べないの?」
お館さまが眉をくもらせて顔をのぞきこんでくるので、有為はどぎまぎして
「もうおなかがいっぱいです」
と答えた。
お館さまは隣の部屋へ行って遊ぼうというので、隣の部屋へ行った。そこは居間のようだった。小さい卓が置いてあった。お館さまは
「双六で遊びましょう」
と、有為に双六を教えてくれた。そんな遊びがあるとは知らなかったが、しばらく教わってなんとなくわかったので、ふたりで遊んだ。お館さまが勝つとうれしそうに手をたたいて笑うのが楽しかった。朝顔が迎えに来てもう寝る時刻だと言われた。お館さまはちょっときまりが悪そうにもじもじして、
「ではまたあしたね。おやすみなさい」
と言った。有為もちゃんとすわってお辞儀をした。お館さまはおとなの女の人なのに、子どものように遊んで、恥しかったのかもしれない。