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 女童に手をとられ、開いた門をくぐれば、広い前庭の先に屋敷の入口が見える。飛び石を踏んでいく足元もまるで雲を踏むようにおぼつかない。これは夢を見ているのか、と有為はぼんやり思った。ここは深山の奥の奥。まわりにいたのは狐たちだ。この結び髪の女童も狐の子だったはず。

 気づけば雪洞に照らされた座敷に敷物をしいて座らされていた。蒔絵漆塗の高坏の上にかわいらしい桜色の茶碗が乗って、となりには色とりどりの落雁が置かれている。夢ならさめる前にお菓子を食べてしまおう。いつもの夢では食べる前に覚めてしまうから。有為は落雁をつまんだ。紫陽花をかたどったうつくしい菓子だ。思い切って口にいれると、ほろほろとくずれて上品な甘さが広がる。次にはお茶を頂く。香ばしく甘みがありすっきりとさわやかな味わいだ。

 ふとおのれをみれば、みすぼらしい布子は山歩きによごれ、手も足も土がついている。これではりっぱな敷物がよごれてしまう。有為は立ち上がって敷物を下りた。いや、畳の上に座るのもいたたまれない。板の間をさがして戸障子をあけると、廊下には上臈じょうろうがずらりと並んで、有為の顔を見るとにこにこといっせいに頭をさげた。有為はびっくりして戸障子を閉めてしまった。


 ほどなく襖があいて、狐の女童が入ってきた。頭をさげて有為の手を取ると座敷から外へいざなう。やはりこの座敷は間違って入れられたんだ。有為は納得して狐の女童に連れられて行った。渡り廊下を歩くと中庭に美しい月が出ている。うっとり見とれて歩くうちについたのは湯殿だった。湯殿なんて、有為の家の崩れた母屋にあっただけで、地主の家にもなかった。

 檜の湯船にたっぷりの湯がたたえられ、磨きこまれた白木の簀の子にあたたかい湯気があふれていた。湯殿係の女中が三人たすき掛けで待ち構えて、あれよあれよという間に布子を剥がれ、湯帷子を着せかけられ、菖蒲の匂いのする湯を何杯もかけられた。手足を洗われ、髪を洗われ、湯帷子を脱がされて体を磨かれ、気づけばゆったりと湯船につかっていた。ああ、疲れが抜けているようだ。

 湯からあがると髪をとかされ、顔や手足によい匂いのするものをすりこまれた。まっさらの肌着の上にきれいな小袖を重ねて着せられ、狐の女童にまた手をとられて、さきほどよりもっと広い座敷に連れて行かれた。

 そこには几帳が置かれ、厚い敷物と脇息の前には、ずらりとごちそうが並んだ卓が置かれていた。狐の子は有為を敷物に座らせると、椀の蓋をあけたり、お米だけのごはんをよそったり、給仕をはじめた。箸をみると一膳しかない。有為は目をまわしそうだった。ともかく食べていいようなので、すこしずつ食べたが、とても食べきれるものではなかった。

 気が付くとまた別の部屋に連れて行かれ、ふかふかしたりっぱな布団に寝かされた。ひとりになって、行燈の灯心も引かれて薄暗い部屋に、じっと横になっていると、邑を出てからの事が夢の中のようだった。自分はまだあの邑のあの家にいて、夢を見ているだけなのではないか。朝がくれば台所のいつもの隅で目がさめるのではないか。父親が亡くなったのも、義母と義妹が実家に帰ったのも、生まれた家を取られて追い出されたのも、みんな夢だったのではないか。けだるい疲れと満腹感とあたたかい夜のものがいやおうもなく有為を熟睡に引きこんでいった。


 白む戸障子。庭に鳴き交わす小鳥の声。目がさめてもゆうべと同じ部屋、おなじ夜具だ。夢ではなかったのか、と有為は思う。ではここはどこなのだろう。山奥に迷い込んだ有為。導く狐の子。こんな深山に思いもかけずりっぱなお屋敷。夜具の上に起き上がると、枕元の乱れ箱に着替えの小袖が畳んであった。ゆうべ食事の時に着せられていたものとも違う。

 戸障子が開き、例の狐の女童が顔を出す。有為が起き上がっているのを見ると、いそいそと入って来て戸障子をあけ、行燈を消した。ぺこりと頭をさげると、入口からまたも女中たちが入って来て、よってたかって有為の世話をする。いつのまにか着替えさせられ、蓬髪ほうはつをとかされ、夜具も片付けられた。狐の女童に手をとられて、ゆうべごはんを食べた座敷につれられた。同じ襖絵なので同じ部屋なのだと思う。朝からごちそう満載の卓もゆうべと同じだ。こんなにたくさん食べられやしない。もったいないと思うばかりだ。

 朝ごはんがすむと、有為は着ていた布子を洗いたいので返してほしい、と女中の一人に声をかけた。持っていた布包みもどこにあるのか教えてもらいたいと。山の中で行き暮れていた有為を助けてくれたのはありがたい。おなかいっぱいごちそうを食べたし、ふかふかの布団で眠ったので、疲れはすっかりとれた。そろそろこのお屋敷の主にお礼を言って、おいとまするべき時だ。

 ゆうべの狐の女童があわてたようにやって来て、有為の前で何度も頭を下げた。すっかりお世話になったので、お礼をいうのは有為のほうだ。有為も同じくらいぺこぺこと頭を下げた。狐の女童は昨日の汗衫姿とは打って変わって、切袴に小袿を着ている。童女から女中に格上げされたらしい。狐の女童が困ったように眉を寄せるのを、先ほど女中に言ったのと同じことを頼むと、黙って有為の手をとって歩き出した。

 渡り廊下を通っていくつもの屋敷を抜けていく。よほど広い館なのだろう。どの屋敷もよく手入れされていて、女中や雇人がちらほら働いているのに出会う。みな、女童につれられた有為ににこにこと頭を下げる。有為はどぎまぎと礼を返す。女童に手を引かれてどんどん屋敷の奥まったところへ入っていくようだ。これはいけない。有為は何度もいとまごいをして女童の手をはずそうとした。見た目は幼いのに、狐の子のせいかむやみに強い。女童の手はどうしてもはずれない。その間にもどんどん奥に進んで行って、とうとう女童の足が止まる。御簾の下がった部屋にいざなわれ、女童はうれしそうににっこりして、うやうやしく頭をさげた。有為がびっくりして頭を下げると、次に顔を上げた時にはもう女童はいなくなっていた。雅やかな奥座敷に有為はひとりで取り残されていた。もう外に出るにはどう歩けばいいのか、ぜんぜんわからない。しかたがないので、おそるおそる座敷に入ってみた。

 繧繝縁の青畳はすがすがしく新しい。座敷の壁際を足を忍ばせて歩く。衝立をまわると磨きこまれた広縁に出る。目の前はひろびろとした奥庭だった。築山にそれはみごとな花咲く木が立っている。何の木やら有為には見当もつかないが、ほのかに紅色にそまる花が幾重にもかさなって、奥庭の気を甘く香らせる。遣水が流れ、丹塗りのかわいらしい橋がかかり、水辺には草の花が咲き乱れ、蝶が舞い、鳥が遊ぶ。若葉の淡い緑から苔の濃き緑まであふれている。有為は広縁にぺたりと座りこんだ。この景色は知っているのだ。何度も夢に見た。


「ほんとうにあったんだ」


 有為はつぶやいた。


 どれだけぼんやりと座っていたのだろう。奥庭の光は少しうつろっているようだ。もう日は中天に近い。叢では蛙でも見つけたのか、猫が二匹じゃれあっている。築山のみごとな木の枝には尾長鳥が座って、尾を風にゆらせている。築山の向こうを鹿のししが何頭も歩いている。ここに着いた日に会った群れかもしれない。遣水に頭をつけて水を飲むのは山犬と狐か。広縁の端をちょろりと飯綱が通り過ぎる。

 庭に目を奪われていた有為は、小さな物音に横を向いた。座敷の縁に近いところに几帳が置かれていたのが、その陰からそっとこちらをのぞいている目があるのだ。今のいままで気づかなかった。いつからそこに人がいたのだろう。有為はあわてて頭をさげた。几帳が揺れて、唐織の綾衣の袖が差し出された。白い細い手に桜桃がひと盛りのせられている。白い手の上のみずみずしい桜桃は、きらきらと透き通り紅い宝玉のようだ。まるで夢で見たとおりだ。いつも夢はここで終わり、有為は差し出されたものを受け取ったことがないけれど。

 どうして夢で見た場所なのかわからないけれど、この人がこのお屋敷の主人のような気がした。頭をさげたまま、目のすみっこで桜桃の紅を眺めていると、白い指がふるふるとふるえているのがわかった。


「桜桃はキライ?」


 透き通ったうつくしい声が降ってきた。


「楊桃だったらスキ?」


 語尾がしめり、手は力なく垂れて、ころころと桜桃が畳の上にころがった。


「楊桃はもらってくれたのに……枇杷、枇杷ならいい?それか木苺は?」


 さわさわさわ。庭の木に枇杷の実が生り、灌木に木苺が実っていく。びっくりして顔をあげると、几帳を押しやって、とてもきれいな女の人が有為の顔をのぞきこんでいた。

 長い髪はさらさらできらきらしている。つやつやした綾織の着物を何枚も重ねて、その上に小さなまっ白い顔がのっている。切れ長の目は濃くて長いまつげに覆われ、それがぐっしょりぬれて、今にもうすももいろの頬に涙がころがりおちそうだ。


「あの、桜桃を」


 有為は口の中でもごもごつぶやくと、敷物の上にばらばらところがった桜桃をひとつつまんだ。そのまま口に入れて噛む、と甘くほんのりすっぱいみずみずしい桜桃の果汁が口にひろがった。心配そうな目がぱっと明るくなって、うれしそうに三日月のようになった。


「おいし?」


 有為がうなずくと、きれいな人はにっこりした。それはもう春日がさしたか花が咲いたようだった。


「よかった、ほんとうに。もうこれでずっとここにいてもらえる」


 有為は首をかしげた。もうお礼を言ったら自分の着物に着替えて出て行くのだ。ずっといるなんてできない。有為はきれいな人に何度も頭を下げて、ひと晩泊めてもらったこと、おなかいっぱいごはんをもらったことのお礼を言った。そして、女中に話した通り、自分の着物を返してもらって先に進みたいと言った。

 女の人は顔色を変えた。あんなにうれしそうに笑っていたのに、今はまるで灯が消えたようだ。どこに行くのかと尋ねられたので、行くあてはないからどこかの邑か街で働くつもりだ、と話した。


「ではここで働いたら?」


 うなだれてうつむく女の人のうしろから、狐の女童が声を出した。ここで働かせてもらえるなら、きっと生まれた邑の地主にも気が付かれることもないだろう。義母や義妹と顔をあわせる心配もない。ほかの邑や街で働くには、有為はまだ子どもの上知り合いもない。手に技があるわけでもない。身よりもない子どもを雇ってくれるところが見つからないかもしれない。とにかく、寝る場所と食べ物があって、ひとつところで働けることが大事だ。有為は狐の女童ときれいな人の顔を何度も見返した。ふたりとも心配そうだった。特に女の人はもう泣き出してしまいそうなくらい悲しい顔をして、有為をじっと見つめている。


「ここで働かせてもらえれば、ありがたいです」


 有為が答えると、狐の女童はにこにこして有為にうなずき、きれいな女の人の袖を引いた。女の人は女童を見ると「よくやった」とばかり、頭をなでてあげていた。


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