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邑の道をたどると川ぞいに下る。ずっと下って行くと隣の邑に行きつくらしい。有為はこの邑のほかは知らないので、人から聞いただけの話だ。隣の邑からは行商人が来る。この邑は道の突当りなのだそうだ。この奥にはもう人の住む邑はない。道を逆に進めば山に入っていく。途中までは山の恵みを分けてもらいに、邑の人間も多く通う里山だ。踏み分け道は奥に行くにつれ細くなり、獣道となり、やがて消える。その先に行くものはほとんどいない。社の神主ぐらいのものだ。山の奥には磐座があって古えより大神がいますという。磐座の注連縄は年に一度新しいものに取り換えねばならない。そのため神主は独りで注連縄を持って山に行く。余人を交えることはない。
有為はわずかな着替えをいれた小さい布包みにもらった糠団子を押し込み、道の途中で立ち止まった。川を下れば隣邑に行けるが、そこはこの邑の者も行き来する。いつ地主から難癖をつけられるかわからない。いくら子どもの有為だとて、家屋敷がすべて義母と義妹に残されたと信じてはいない。あの家の血筋は有為なのだから。だが、地主に逆らってはあの邑では暮らせない。誰もみな、有為の味方にはなってくれないだろう。自分の身が大事なのだ。有為が目のとどくところにいては、地主も義母も枕を高くして眠れないだろう。いっそ誰にもわからぬところへ行ってしまいたい。それが山の奥でもあの世でも。そこまで考えると、有為は山に入っていく道を選んだ。
薪を拾い、山菜を摘み、栃の実や山栗を取った見慣れた里山はもうずいぶん前に越えた。足元にはもう獣道さえない。振り返ると邑のある方角も定かではない。話に聞く磐座は見かけなかった。方角が違うのか、もっと奥にあるのかもしれない。日は西に傾き、もうじき夜になる。
有為はそろそろ木に登っておこうかと考えた。夜の山を徘徊するものとは出会いたくないからだ。しっかりとした幹で枝ぶりもみごとな楢の木を見つけて、草鞋を脱いで布包みに押し込み背にくくりつけるとよじ登った。十分に地面から離れ、有為の体を支えるに足る太い枝の又に座ると、まだうっすらと日の名残りがあった。手元が見えるうちに竹筒と糠団子を取り出す。みると糠団子は五つもあった。平たくして焼いた上にうすく味噌が塗ってある。
「ああ、おいしそう」
空腹の有為は立て続けに三つ食べ、残りは明日に取っておく。竹筒から水を飲むと糠団子と竹筒を布包みにしまい、しっかり縛りなおして背負った。それから腰紐を枝に結び付けた。うっかり寝入っても落ちない用心だ。
夜鳥が鳴いて、風が木々をゆらす。夜の山は人のいてはならない時刻となった。人の肌は夜目には白い。手足を縮め顔を幹に伏せて目をつむる。山のざわめきは人外のもの。見なければあちらも有為を見るまい。明日はどこまでゆけるだろう。山をいくつ越えられる。邑からどれだけ離れられる。幹に腕をまわしてうとうとしながら、有為は遠い先祖もこうしてあてなく山を越えて流れて来たのかなと思った。もっと奥へ行けばもう人里にはもどれないかもしれない。山人になってしまうのかな。それも悪くない。どこか山の隅で山の住人の邪魔にならないところで、ひっそりと暮らすのも。まどろむ有為は自分の周囲に何度も見えない手が触れ、目が通り過ぎたのを知らない。山の獣も妖も有為の座った木をそっと避けて行ったのも。
日が顔に当たって有為は目がさめた。梢から日ざしがもれる。遅い朝だな、疲れていたのか寝過ごしてしまった。有為は冷たくこわばった指で慎重にゆわえた腰紐をほどくと、ゆっくり木を下りた。草地に足がつくと、足踏みし、両腕を伸ばした。体がこわばっている。竹筒から水を飲むと、残りが少ないのに気付く。どこか湧き水か沢を見つけたら汲ませてもらわねばなるまい。
草鞋の紐をくくりなおし、有為は山を歩き始めた。空腹だが糠団子はまだとっておきたい。歩くうちにも何か食べられるものが見つかるかもしれない。ここまで来れば急ぐ道中でなし。
どれほど歩いたか、せせらぎの音がした。竹筒の中身はもうほとんど残っていない。有為は音をたどって歩いて行き、草に埋もれた細い流れを見つけた。水は冷たく澄んでいてとてもきれいだ。助かった。有為はすわるとまず山の神さまに礼をした。山のものは軽々しく受けてはならない。それから手で水をすくって飲む。ほんのり草の匂いがして甘い。すくった水で顔を洗い、手足を洗う。まちがっても流れに汚れ水をこぼすことのないよう気をつけた。水を濁すのは大きな罪だからだ。そのあとで竹筒を沈め水を汲む。
「ありがとうございます」
心から感謝をささげる。
顔を上げるとせせらぎのむこうに倒木が見え、その上に緑の葉にのった楊桃が置いてあった。まるで誰かがそこに摘んでおいたようだ。とうてい山の獣のしわざとは思えない。山人だろうか。楊桃は摘んだばかりのようにみずみずしく、熟れてさわやかな匂いを漂わせていた。有為はおなかが鳴った。朝から水しか飲んでいないのだ。このあたりに楊桃の木があるのなら、少し摘ませてもらおう。顔をあげてきょろきょろしても、それらしい木は見当たらなかった。誰が置いたのだろう。しばらくそこに座って待ってみたが、山はさわさわと鳴るばかりで、誰も姿を見せなかった。
虫が倒木を這っていく。不思議なことに、楊桃を乗せた葉には触ることなく、よけて通り過ぎる。
「ごめんなさい」
有為はそういうと楊桃をつまんで口に入れた。甘ずっぱい。ひとつ食べると空腹の子どもには止めるすべがなく、とうとうひとつ残らず食べてしまった。有為はしばし考え込むと木の葉の皿を裏返し、その上に自分の髪を結んでいたくくり紐を解いて乗せた。誰だか知らぬ相手へのお詫びの気持ちだ。
足元の草は昨日よりずっと柔らかく歩きやすい。木々もほどよくすいていて、日ざしがきららかに差し込んでくる。鳥の声が鳴き交わす。少しのぼり勾配のようだ。足元は木の根がしっかり張って、それを足がかりにするので上りやすい。ころあいの石があったので少し休むことにした。腰をおろして水を飲む。日はそろそろ西に傾いて、風もひんやりとしてきた。昼間に食べた楊桃はとっくにこなれて、子どものおなかはまた減ってきた。糠団子を食べてしまおう、と有為は思った。とっておいても悪くなってしまうから。布包みをひらき、残りの糠団子を取り出す。
ふと顔を上げると目の先にちょっこりすわってこちらを見ているものがある。明るい赤毛の狐の子だ。人間を見たことがないのか、おびえる様子もなく、不思議なものを見るようにじっと眺めている。狐の子の鼻さきがぴくぴくする。有為はこっそり笑った。糠団子に塗った焼き味噌の匂いがするんだろう。
「あげようか。食べてごらん」
有為は団子をちぎるとそっと草の上に置いた。あとずさりして石の上にもどると、自分も残りの糠団子を口にはこぶ。どうするかな、と見ていると、狐の子はかろやかに近づき、ふんふんと団子のかけらを嗅いでいる。それからぱくっとくわえ、顔をあげて有為の様子をうかがう。「食べちゃうよ、いいのかい」とでも念を押すように。有為は子どもらしくふふふと笑った。狐の子の口元も笑うかのように上がる。そして狐の子はもちゃもちゃと糠団子を食べた。
すわりこんで小首をかしげる狐の子に「もうないよ」と両手を広げて見せると、狐の子は立ち上がって森の中に歩いて行った。と見ると、立ち止まって首だけ有為の方にむける。まるでついてこいと言っているようだ。有為は楽しくなって狐の子のあとをゆっくりついて行った。狐の子はとことこと獣道を歩いて行く。有為はそのあとを歩数をあけて静かについて歩く。いずれ森の奥で逃げられてしまうのだろうけれど、それまではまるで友だちのように連れだって歩く。狐穴にでも連れて行かれるのかな。こういうのを「化かされる」というんじゃないか。それも面白いかもしれない。どうせゆくあてなどないのだから。狐の子と兄弟になって穴で暮らすのも楽しかろう。有為は久しぶりに何の屈託もなく笑った。
そろそろ森の中も薄暗く、今夜の泊りを探さねばならぬころあいだ。狐の子はそれはもう気づかわしげにしょっちゅう振り向く。有為が足を止めると狐の子も立ち止まって、ちらちら有為を見ながらそわそわする。まるで有為が狐の子のあとをついて来なくなるんじゃないかと案じているようだ。
いきなり茂みがざわついて、大きな獣がぬぅっとあらわれた。ほっそりした足、褐色の背、白鏡、それは大きな鹿のししだ。りっぱな角持ちの大雄。あとに小柄な雌と子をひきつれて、ゆったりと水場を目指すのだろうか。有為は息をとめて鹿のししの一党が通り過ぎるのを待つ。鹿のししの大雄は美しい目でまっすぐに有為を見て通る。雌たちは狐の子と同じように、ちらちらと気になって仕方がないというふうに見ていく。鹿の子まだらの子たちは、足取りもおどるように雌の足元にまとわりつく。かわいらしさに頬がゆるむ。りっぱな鹿のししは有為のことを山人のように思ってくれたのか、角を向けることなく静かに通り過ぎた。有為はほぅーっと息をついた。
ふと、狐の子のいた方を見た。さすがにもういなくなっただろうと思ったのに、狐の子は心配そうに座りこんで待っていた。不思議なこともあるものだ。狐の子は腰をあげてまた歩き出した。ところが森蔭から大人の狐が何匹も滑り出し、狐の子のあとを群れとなって歩いていく。有為はさすがにその異様さに足をとめた。狐の子は有為を振り返ると、鼻面を空にむけて「キューン」と鳴いた。あとに付く狐の群れも口々に「ケン、ケーン」と鳴く。有為はあっけにとられ、あまりの不思議さにぼうっとなって、ふらふらと足を動かしついていく。傍目にはすっかり化かされた態だろう。狐の群れは笑っているように口元をあげて、有為の方を何度も振り返る。そして足早に駆けだす。楽しくて面白くてたまらないぞ、というふうに。
時まさに「かはたれどき」狐たちは房尾を高くあげる。ぽ、ぽ、ぽ……みるみる夜の森に青白い狐火が燃える。恐ろしいより美しい面白い景色に、有為は心をうばわれ今はまるで駆けるように足早に急ぐ。突然目の前が開けて、木々はぐるりに退き、狐たちはずらっと居並んだ。真ん中にあの狐の子が立つ。狐火は橙色の灯篭の灯にかわり、まるで道をつくるように並んでいる。その先にあるのはりっぱなお屋敷だ。冠木門の扉は網代、青緑に艶めく甍、檜皮葺の屋根、青垣の築地。門扉は大きく開かれ、狐の子がまねく。いや、狐の子は汗衫姿の女童となりかわり、居並ぶ狐たちも水干姿。有為は何度も目をこすった。