13
墓前から立ち上がって、帰ろうと振り返ると、なにやら後ろの方でざわめいている。有為の横に立つお館さまの眉がきりきりっと顰められている。
「見て参ります」
さすがに奥の宮で中臈を勤めているだけあって、気がまわる有明がさっと離れて行った。鈴蘭は逆に有為にぴったり付き添っている。しばらくして有明がもどってきて、お館さまに言上した。
「邑の者が申し上げたき義があると、参上しておるそうにございます。ご引見あそばしましょうか」
お館さまは切れ長の目を細めて、かすかにうなずいた。
「墓所では騒々しい。有為の家跡までもどろう」
有為は不安な目をお館さまに向けた。が、にっこり微笑みが返ってきただけだ。お館さまは有為の手をとって輿までいざなう。輿の中央におさまると鈴蘭が裳裾や被衣をおさまりよくたたみこんでいく。お館さまがうなずくと輿があがり、山道を空地までくだりはじめた。途中で見慣れない人々とすれちがう。帯刀の方々がきびしい表情で両手をひろげ、輿やお館さまに近づけないように阻んでいるようだ。誰だろう。見覚えのない顔ばかりだ。有為は首をかしげた。
空地にもどるとお昼を頂いた幔幕はそのままに残されていたので、輿をおりて中にすわった。鈴蘭がまた裳裾をきれいに整えてくれた。「ありがとう」と小声で言うと、かわいい顔でにっこりされた。有明が濡らした手巾を手渡してくれたので、手を拭き清めた。お館さまも同じように手を拭いている。随行の文人のひとりが膝をつき
「邑の者が御前に。また、奥君さまの縁者と名乗る者も同行してお目通りを願い出ております」
と言った。
見れば邑長という痩せた老人、反対に肥え太った中年の男、狩衣に烏帽子を冠った男の三人が、ややはなれた草の上に敷物を敷いて座っている。肥えた男はよくみれば地主だった。だが、有為の記憶よりもっと太って、顔も赤くむくんでいるようだ。年もとって見える。有為が邑を出てから何年たったのだろう。
外から幔幕の中がのぞけないように、有明が几帳を立ててくれているが、お館さまは半分外に体を出して有為を隠すように座っている。お館さまこそ、神さまなのだから、人間に気安く見られてはならないのに。これではまるで有為が高貴な女人のようだ。ひとり前に出た邑長の老人が、平伏して枯れた声で
「いずれの高貴な方々であらせられましょう。鄙びた邑の墓においで頂くとは。墓の者とはどのようなご縁でございましょうか。よろしければ、お聞かせ賜りませ」
と尋ねた。ややうしろに座った地主と狩衣の男は軽く面を伏せたままだ。
「こなたは名乗らぬが、いとも尊き方であられる。御主の奥君が墓の者にゆかりこれあり、ゆえに遠路この地に訪れたもの。汝らの関わりは無用にて、畏れかしこみ、ご一同が座を払うまで避けよ」
文人のひとりが申し付けると、邑長はべったりと草地に額づいた。
狩衣の男が面を伏せたまま
「吾は雅楽寮の小属にて橘の何某。墓の者とは従兄弟に当たりまする。長く誼が途絶えていたのを、先日ふと思い立ち消息を訪ね来て、はじめて身罷ったことを知った次第。娘があったはずと、引き取って京へつれ帰ろうと思うに、ここな邑の男が、娘は自分の妹との間の子で、従兄弟の没後は母子ともに引き取って世話していると申すのです」
狩衣の男は隣の地主の方をちらりと見た。地主はふんと鼻息を吐いた。
「こなたさまが従兄弟のゆかりの方であられるなら、従兄弟の娘のことをご存じではございませぬか。邑の者はこの男をはばかって、尋ねてもいっこうに答えません」
「死んだ長良どのは確かに吾らの妹のつれあい。忘れ形見の玉木は吾らの姪じゃ」
地主がだみ声で水をさした。
「従兄弟の文には、妻女が身罷って幼い娘が残されたとあった。汝の妹は生きておるではないか」
「妹は後添えじゃ。玉木はそのあとに生れたのでな」
「ならば、その姉なる娘はいずこにいるぞ」
「ああ、父親が死んでほどなく、ふらりと邑を出ていったのじゃ。おおかた旅の男にでも誘われていったのだろうて。とんだ尻軽の恩知らずよ」
邑長の老人が口論になりかける二人の男を小声でたしなめた。
「従兄弟の血縁の娘なら、引き取って京で良縁をさがしてやりたい。が、他人ならまっぴらだ」
狩衣の男はきっぱりと言い渡した。
「玉木という娘は従兄弟には似ておらぬ」
お館さまは飽きたような顔で文人を招くと、耳元で「そろそろもどろう。けりをつけよ」と命じた。文人はうなずくと狩衣の男に向き直り
「われらに何をもとめるぞ。ありていに申せ」
と言い渡した。狩衣の男は携えた箱を前に取り出した。
「橘の家流は笛。これは従兄弟の蔵していた竜笛で、娘ならこれを吹けるはず」
お館さまがちらりと箱に目を動かし、それから有為の顔をのぞきこんだ。
「おや、そんな芸があったの?」
とささやく。目がやさしく笑っている。有為はかぶりをふった。笛はたしかに父親が大事にしていた。とりだして手入れし、必ず一曲は奏でていた。が、有為は笛にふれたこともない。そばで見ていたのは、祖母が生きていた幼い頃までだ。義母が来てからは、笛を吹く父親の後ろ姿とその曲を聞くことしかなかった。「できません」と小声でお館さまに訴える。
「玉木とかいう娘に笛を吹かせよ」
男たちのかなり後ろに座っていた母と娘が手招きされ、前に進み出た。有為はしばらく会っていない、義母と義妹の顔を眺めた。義母はあの頃より年老いて見えた。おちついた色合いの衣は、お屋敷の下臈方の召し物にもおよばぬ。子どもの有為の目には、上品で権高く見えていた顔かたちも、ただの鄙の婦人とみえた。
それにひきかえ義妹は、妙齢で美しく育っていた。これなら京に出したいと欲が出るのも当然かもしれぬ。義妹は袿袴をまとい、髪も長く整えられていた。呼び出されて草の上に敷かれた敷物に座った様子は、貴族の娘といってもおかしくないほど麗しかった。これでは、邑の若者の手が届くまい。義妹は顔をあげるとうっとりとお館さまの姿を見つめた。
笛は箱から取り出され、娘に渡された。だが、持つ手もぎこちなく、形にもならず、歌口に息を吹き込むも、音は出ることがなかった。しばらく試みて娘はあきらめたように笛を手放した。
狩衣の男は笛を取り戻すと、ていねいに拭き清めてから、箱にもどし、箱ごと文人の前に差し出した。
「まことにおそれながら、几帳の奥の御方にお試みいただきたく」
文人がお館様の指示を仰ぐと、かすかにうなずかれたので、箱を受け取る。箱は有明の手に渡り、有明は箱から笛を取り出し改めて丁寧に拭き清めた。それをお館さまが手に受け取った。有為の前に差し出された笛は、古めかしくややくすんでいながら、しっかりとしたつくりで、いかにも由緒ありげな品だ。どことなく見覚えもあり、有為は父親を懐かしく思い出した。
お館さまは有為の背から手をまわして、笛の持ち方、指の置き方を教えてくれた。そして歌口を有為の唇にあて、
「静かに息を吹き込んでごらん」
とささやいた。有為が息をすると笛が応えた。深みのある力づよい音が流れ出す。指を動かすと音がかわる。おもしろい。吹き込む息をかえると音は細く鋭くなった。有為はますますおもしろくなって、風の音や雨の音、鳥の声、虫の音などまねしてみた。「もういいよ」お館さまが有為の手をとって止めるまで、夢中で吹いていたらしい。
恥しくなって外をうかがうと、狩衣の男も邑長も平伏していた。地主と義母と義妹はぽかんと口をあけて、几帳の奥をながめている。お館さまは立ち上がると幔幕の外に出た。あまりの麗しさに邑人のざわめく音がするが、声を出す者はない。
「橘の何某、邑長、ほかの者。その方どもの思うとおり、これにあるは墓に眠る者にゆかりある娘。幼くして母親をなくし、育ての祖母をなくし、父親をなくした挙句、家を奪われ、身ひとつで生まれた土地を放逐されたもの」
遠巻きにした邑人がいちように目をそらす。みなし子になった子どもを、地主の手前見て見ぬふりをして逃げたのは邑人すべてだ。地主は膝においた拳を握りしめ、力んだ顔は赤黒かった。お館さまはふっと笑った。有為に見せてくれる笑顔とはちがって、冷たくさめた笑みだった。これが冷笑というのかしら、と有為は首を傾げた。
「われらはこれから立ち退く。再びこの地を訪れることはあるまい。邑のものが心あるならば、墓を守るもよし。荒れるままに捨て置くもまたよし。橘の何某は、血縁の娘を案じる必要なきことを胸におぼえよ。墓に眠る者の形見として、この笛一管譲り受けよう」
文人がお館さまのうなずきに応えて、狩衣の男に近づき布包みを手渡した。橘の何某はさすがにその場で包みをあける不調法はさしひかえたが、その手触りや重さから中身を推し量ったようで、すっと顔色を変えた。そして静かに頭を下げた。
「血縁にございますれば、なにとぞよろしくお願い申し上げまする」
お館さまは有為の手に笛を握らせてにっこりした。そうか、これは形見なのだ。有為もなんだか胸がいっぱいになってほほえみ返した。
「もう気がかりはない?」
お館さまのことばに、有為は改めて邑の人々をながめた。人垣の奥に、昔邑を出る時糠団子をくれた女中をみかけた。
「あの、松さんに糠団子のお礼をしたい」
あら、と鈴蘭が額に指をあてた。そう、鈴蘭もいっしょに糠団子を食べたものね。
文人が近づくと人垣は割れ、中年の女中がうろたえながら取り残された。
「松というお女中に頂いた糠団子の礼物を下されるとのこと。受け取られよ」
素絹の反物五反を手渡された女中は真っ赤な顔でうつむいた。
「奥君がたいそうありがたかったとのお気持ちである」
「おれはそんな……あんなもんで、こんなりっぱな絹をもらうなんて」
邑人は初めて目にするようなりっぱな反物に目をみはった。うらやみのつぶやきがあちこちからもれる。
あれはこの人が自分で食べるために作って持っていたんだろうに。邑を出される子どもをあわれに思って、持っていたものをとっさに手渡してくれたのだ。そして、早く邑を出ていくほうがいいよと言ってくれた。有為は彼女にお礼ができたことを心からうれしいと思った。