12
数日もしないある日、初めて入る表書院の前庭に鮮やかな彩色の竜頭鷁首の船が横付けされた。前庭に水はないのに、その船は靄をはらんで浮いている。
「天の鳥船というの。空を飛ぶ船だ」
お館さまが笑いながら有為の手を取って乗せてくれた。
「お船に乗るのははじめてです」
「水主はみな、有為がここに来るのに付き添ってくれた、野狐の一族だよ」
「よろしくお願いします」
有為は白丁姿の水主方に会釈をした。狐の一族なら鈴蘭の身内だろう。あの山の夜をいっしょに駆けた、楽しそうな狐の群れを思い出した。
船には中央に御帳台ほどの屋形が組まれ、陽炎と鈴蘭が有為の側仕えとして同行する。お館さまはいつもの袿袴ではなくなぜか男姿の衣冠をお召しで、直刀までお腰に佩いている。お顔は玉のように玲瓏としてうつくしいのに、きりりと凛々しい。有為は眩しくてまともに見られなかった。文人や帯刀といったご家来衆も何人か乗り込む。
有為は袿袴の上に紗の被衣をかぶらされている。これは朝顔が掛けたのだが、「とってはなりませぬよ」と言われた。
「有為さまは天河さまの奥君なのですから、みだりに外の者にお姿をさらしてはなりません」
有為は真っ赤になってこくこくと頷いた。「奥君」ということばにどきどきしたので、声が出なかったのだ。お館さまに笑われてしまった。
手をとられて屋形の中に座らされると、三方を垂帳でかこわれていた。うすぎぬなので外の景色もうかがえる。風も通る。前方は帳を上げていて、行く手を眺めるのに差支えない。有為が座におさまると、お館さまが屋形の前に立って杓で行く手を指し、朗々と「いざ」と声をかけた。水主がいっせいに「応」とこたえ、鳥船はふわりと浮きあがって風に乗った。蒼天のもと白雲を下に見て、鳥船はするすると進む。
船べりから下界を見に行った鈴蘭が頬を紅潮させて戻っては、森が見えたの山が見えたのと報告する。時には「ちょろついて落ちるなよ」と水主の誰かに叱られているようだが、一族の親しいものなのだろう。ぺろっと舌を出して肩をすくめるばかり。陽炎は落ち着いて有為にお茶を淹れてくれたりする。お茶をもらいながら見るともなしにながめていると、「あれは?」前方に金の点がきらめいた。
「太白ですね。後ろには北斗が随行しておりましょう。二頭とも有為さまを慕って、どうしてもついて行くのだとききませんで、天河さまがしぶしぶお許しになったそうですよ」
陽炎が苦笑して教えてくれた。有為は胸がぽっと温かくなった。みんなこんなに優しくしてくれるのだ。
しばらくするとどこか見覚えのある景色になった。
「名曳山だ。有為の邑につくよ」
お館さまが有為の手をとって屋形の外に連れ出してくれた。磐座も小川も薪を拾いに通った杣道も見える。田畑も集落もぐんぐん足元に近づいて、みるみる人の姿も見分けられるほどだ。
「現世は今ちょうど春の盛りだ。有為の家の跡が空地になっているから、そこに降りるよ」
お館さまが杓で指すと、鳥船はすいっと蜻蛉のように静かに下りて地に止まった。水主たちが渡り板を渡すと、帯刀らがまず降りて並んだ。太刀を佩き弓胡籙を背負っている。みな随身の身ごしらえだ。舎人たちがそれに続いて、空地に緋毛氈を敷き、幔幕をめぐらせる。たちまち仮の御座所ができあがる。鮮やかな手配だ。次には陽炎と鈴蘭が茶道具や手箱を運び、薄縁を緋毛氈の上に重ねて、席をこしらえる。お館さまは有為の手を引いて、薄縁の上に座らせた。
「お疲れでしょう。そろそろ昼餉をとりましょう。みなも休むように」
蒔絵の重箱が開かれ、お茶が淹れられ、お館さま手ずから料理を取り分けてくれる。みんなくつろいで食事をしているようだ。軽いざわめきが安心できる。梅、桃、桜。木々は競って花弁を飾り、地には若草。スミレ、ジシバリ、カタバミ、ハコベ。
「この土地が有為を覚えているようだね。有為が帰って来たのがわかるのだろう」
お館さまはくすくすと笑った。
「ごはんを食べたら墓に参ろうね」
うなずいた有為は、お館さまの心遣いがありがたくて胸がいっぱいになった。
荒れ果てた屋敷跡は空地になっても、なんとなく見覚えのあるのはもとの庭木だろうか。草の間からこっそり顔を見せているのは、崩れかけた母屋の床下に棲んでいたイタチの一家か。眠気をさそう蜜蜂の羽音。鳴き交わす小鳥の声。うっとり目を閉じれば、穏やかな父親の後ろ姿。祖母の名を呼ぶ声まで聞こえる気がして、有為はぱちりと目をあけた。お館さまが気づかわしげに有為の顔をのぞきこんでいる。有為はきまりが悪くなって、ちょっと眉を下げて笑った。
おひるごはんを終えると、少し休んで、また陽炎に被衣を着せかけられた。
「有為さまは輿をお召しいただきます」
「え?ワタシもお墓まで歩くのに」
と答えると、今度は鈴蘭が
「そのお衣装ではお拾いはむずかしゅうございましょう」
と笑った。たしかに長袴では山道は歩けない。お館さまが男姿なのもこのためだったのか、と今さらのように有為は気づいた。自分も男姿になればよかった。有為はうらめしそうに浅沓をはくお館さまの足元を見やった。しかたなしに、おとなしく輿に舁かれてお墓までの道を進む。横にはお館さまがすずしげにほほえんでいる。後ろには陽炎と鈴蘭。見れば二人とも切袴で、袿は細帯をかけてからげている。ずるい、教えてくれればよかったのに、と有為はちょっと涙目になる。
屋敷跡の後ろ山を登ると有為の家の墓所がある。石塔が積まれ、標の墓石がいくつか、若草の中に佇んでいる。一番手前が父親のものだ。隣が母親、その奥には祖父母の墓。あとは先祖の誰かれのものなのか、有為にはわからない。閼伽を汲み、香華を手向けて、墓前で手をあわせると、お館さまも同じようにしている。神さまなのにかまわないのかしら、と有為は首をかしげる。
ともかく気をとりなおし、父親と祖母に今の境涯を報告する。先祖伝来の家を保てなかった不甲斐ない子どもで申し訳ないとあやまった。顔も覚えていない母や有為が生まれる前に亡くなった祖父には、今は幸せに暮らしているので安心してほしいと祈る。なにか胸のつかえがとれて、すっきりと澄みわたったような気持ちになった。例えはおかしいかもしれないが、蝉の子が土から這い出して薄皮を脱ぎ捨てたような、これまでと同じ自分のまま一段上って、それまで気づかなかった外皮がはらりと剥がれたような不思議な感触だった。霞が晴れて、景色がいっそう鮮やかにくっきりと見えるような。
お館さまがまぶしげに目を細めて「人気がまた一重落ちたようだ」とつぶやいた。
「ここに足を運ぶことはなかなかできないけれど、有為の先つ親への孝心は全うできたのだから、みな泉下で安心しているはず」
お館さまになぐさめられて、有為はほっと楽になった。家もすでにない。近い親族もない。気にかかったのはただ、亡き人たちへ何も言えずに出てきたことだけだった。今はこうして、お館さまのおかげで、両親と祖父母にお参りができた。もうこの邑に思い残すことはない。
「ありがとうございました」
お館さまにきちんと礼をした。