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「ごめんなさい。十六夜の爺がいうとおりだ。もっとちゃんと有為に話さなくてはなりませんでした。不安にさせて、苦しい思いをさせて、ほんとうにごめんなさい」
お館さまの手がうつむいた有為の手を取る。
「有為が帰って来てくれて、わたくしの差し出すものを口に入れてくれて、ここに留まってくれたので、わたくしは舞い上がってしまって。有為にちゃんとお話しもしないで、ただ、先を急いでしまいました」
有為はだまって首をふった。迷鳥を懐にいれてくれたのはお館さまだ。迷子の人間の子に情けをかけて助けてくれた。
「有為が人の邑に生まれた時から、わたくしは知っていました。だって、ずっとずっと待っていたのだもの。待って待って、待ちあぐねて、この何百年はもう諦めかけていたくらい」
お館さまは袖で涙を拭いた。
「さびしくてこわくて、もう二度と会えなかったらどうしよう、そればかり考えて。わたくしは消えてしまいたかった。でも、真澄が約束してくれたのに、わたくしが待っていなかったらと思うと、そのほうがずっと恐ろしくて」
ああ、また「真澄」。お館さまやお屋敷のみなの待っていた人だ。有為でない、たぶんちょっと似ている人。
「有為に真澄の記憶がないのは当然なの。真澄がここにいてくれたのはもう千年以上も前だから。わたくしの愚かな行いのせいで、この手をすり抜けて、輪廻の円環の中にのまれていった。喉が破れるほど咆哮するわたくしに、「必ずまた会える」と小さな声が約束してくれた。真澄を失った苦しみで狂いまわったわたくしは、天の劫罰を受けて地祇に落とされ、この地に鎖でつながれる身となった。この館はわたくしを閉じ込める牢屋。わたくしは奥の宮からさえ出られない。今度のように天の遣いに呼びつけられて上に昇る時のほかは」
お館さまは深いため息をつく。やっぱり神さまだったんだ。地祇というのは国つ神のことだ、と、社の神主に教わったことがある。天神地祇、天の神さま地の神さま、天つ神国つ神、みな同じことだ。
「有為が生まれてから、わたくしは朝な夕な太白や北斗たちを使って、有為の様子を見ていました。たまに有為が川の流れに顔を映す時は、かならず水鏡で見ていたの。貧しい暮らしをしていても、おだやかで幸せそうだったから、わたくしは見ているだけで満足しようと思ったの。会いたくてもがまんしようと。せめて夢の中だけでも、有為のそばにいようと思ったの」
お館さまはうつむいて寂しそうに言葉を継いだ。
「でも、有為は邑を出て山に来た。だったら、ここに来てもらってもいいでしょう?有為が選ぶなら、会っても、いっしょに暮らしてもかまわないでしょう?」
さっと顔を上げたお館さまは、きっと上天を見上げた。まるでそこに何かがいて、その何かに訴えかけているかのように。
「うまれかわり?」
お館さまは何度もこくこくうなずいた。有為は心底びっくりした。たしかに、人は生まれ変わることがあるらしい。前世の記憶を持った人もあったそうだ。でも、有為にはそんなものはかけらもない。真澄という大昔にいた人なんて、有為は少しも知らない。だいたい、千年も昔にいたその人、お館さまの本当に会いたい人、その真澄という人は人間だったとは思えない。なにをもって有為がその人の生まれ変わりだというのだろう。何を期待されているのだろう。有為にはその人の代わりは勤まらない。有為はただの邑の子どもだ。貧しい素朴な暮らししか知らない。
「ごめんなさい。わたしにはその人の代わりはできません」
朝になったらお屋敷を出て行こう。山を下りてどこかの人里に出て、なんとか働いて暮らしていこう。このお屋敷で身の程しらぬ暮らしをのうのうと受け入れるなんて、有為にはとてもいたたまれない。
「あ、あのね。違うの。代わりだなんて。有為が、ここをいやでなければ、ずっといてください。わたくしが疎ましいのでないなら、そばにいさせてください」
お館さまは三宝に載ったかわいらしい紅白の餅を取り出した。
「三日夜の餅。いっしょに食べて。わたくしと末を契って。ずっといっしょに」
三日夜の餅、男女が会って三日目の夜にともに食べることで、夫婦になった証とする。それまでは密かに会っていたものを、公にする「露顕」という婚礼儀式のひとつだ。これを食べることで夫婦として人前で名乗ることができるのだ。
有為は目を白黒させ、口をぱくぱくさせた。食べてもいない餅がのどにつまったかのようだ。お館さまは神さまなのに、人の子の有為と婚礼する?だいたいお館さまは女の人、いや女神さまだ。女の子の有為とは夫婦にはなれない。餅を用意した側付きの上臈方がそんなことをわからないはずがない。神と人との婚礼はできない。あるとすれば、人の世ではそれを「人身御供」というのだ。ましてや女同士では夫婦にはなれない。
「ね?だめ?人の世の儀礼はわたくしを縛るわけではないけれど、有為とわたくしの間柄が決まると思うの。有為がそれで納得して、安心して、ここにいてもらえるなら」
お館さまは色白の顔に薄く紅を散らして、有為の手を引き寄せては、顔をのぞきこもうとした。ところが、有為が茫然として応えないのを見ると、だんだんその顔が青ざめていった。握る手にぎゅうぅぅっと力がこもる。
「あ、あの、ね。わたくし、ずっと、ずっと、いい子にしていたの。ずっと、がまんして、いい子で待っていたの。お、おりこうさんに、してた……ずっと、ずっと」
語尾が湿って来たのでびっくりしてお館さまの顔を見ると、きれいな涙がほろほろ流れていた。有為はあわてて袖でお館さまのほっぺをぬぐった。お館さまはひくひくと肩をふるわせてしゃくりあげた。まるでちいさな子どものようだ。
「北斗なでてた。わたくしもなでてもらいたいのに。鈴蘭や朝顔とばかり仲良くして、うらやましくて妬ましくて」
お館さまは手の甲でぐいぐい目をこすった。
「やっといっしょに寝てもらえるようになったのに、天の輩がなにかにつけて邪魔をする。とうてい許しがたい」
お館さまはそのきれいな眉をびりりっと逆立てた。そして有為と目があうと、しょんぼりと眉をさげた。
「どうかここに、いっしょにいて。毎日いっしょにごはん食べて、遊んで、いっしょに寝て。どうかそばにいさせて。いい子にする。わがままいわない、がまんする。お仕事もちゃんとするし、有為を大事にだいじにする。おりこうに、おりこうにするから、おいていかないで」
お館さまはとてもきれいな大人の女の人だ。きっと都にもこんなきれいな人はいないだろう。この国で一番きれいな女の人より千倍もきれいだろう。きっと神さまの中でもとびぬけてきれいだろうと有為は思う。その人が迷子の子どものように有為にしがみついて泣いている。迷子なのは有為だったのに。寂しがりやでこわがりのお館さま。なきむしで甘えむしのお館さま。
そうだあのお匙師のおじいさんが言ってた。「有為は天河さまのお薬」なんだって。お薬なら少しはここで役にたっているのかな。変てこな根っこや虫だってお薬になるから、みなし子の人間の子もお薬になれるかな。
「お餅たべたらお館さまのお薬になれる?」
有為がお館さまの耳もとで小さい声で尋ねると、お館さまはぱっと顔を上げ、泣いてぐっしょり濡れた目のまま赤くなった。それからたいそうな勢いで何度もこっくりした。それからお館さまの涙を拭いてあげ、お館さまはきちんと坐りなおすと、ふたりで向き合ってかわいい紅白の餅を食べた。お館さまはずっと赤い顔で、食べているあいだももじもじして、とてもかわいらしかった。