#9 光と影(中編)
▼光と影(後編)
修学旅行は、広島だと慶太から聞かされていた。
広島の、宮島にも足を運ぶらしい。
よし乃は、お土産を期待しつつただ待つことにした。広島と言えば、やはりもみじ饅頭だろうな?何て事を思いながら、クスリと笑う。慶太の事だから、判りやすい物を選んでくるに違いない。そんな事を考えて、また今の自分と向き合う。
もう、自分は俗世の人間に戻る事は出来ない。これからはイタコとしての生活が全てになる。自らの師匠も決まっていて、通いで修行に励み始めていた。
だけど、この位の楽しみを抱いていても許してもらえるだろうと信じたかった。
イタコとして一人前になるには、まず、師匠の身の回りの世話をするのが基本である。家事や、炊事。これらを経て、祭文・経文・祝詞・呪文・真言の暗誦を習得していくことになる。これらは、様々な巫術や祈祷の際に唱える大切なもので、一句も違える事は出来ない。
殆ど目が見えないよし乃にとっては、きつい事ではあるが、周りの修行者たちも、殆ど同じハンデを背負っている訳だ。だから、文句などは言えやしない。判ってはいるけれど、辛い事は確かだった。そう、盲目であるからこそ、これらを口移しで殆ど覚えなければならないのであるのだから。
だから、こういった修行がきつくて堪らないイタコ志願の者達は、直ぐに、山を降りる。
しかし、よし乃は違った。自分にはこれしかないのだ。とそう判っていたから、諦める事も、断念する事もなく、師匠に食らいついた。そして、元来の才能という物がよし乃にはあったので、辛くとも、逆にそれをバネに出来たのではなかろうかと思う。
そして、暗誦させられる経文。まずは、般若心経であった。これは一般的なものであり、誰もが身につけている物であった。よし乃は、耳は良いし、覚える早さも人一番早い。だから、異例な早さでこれを覚えてしまった。
その他に覚えなければならないのは、仏説地神経、地蔵和讃、錫丈経、高天原や、大祓の祝詞である。また、八卦や祈祷などの技法も徐々に覚えていかなければならない。
でも、これらを覚えたからといって、仏おろし通称、死霊の口寄せが出来るかと言われると出来るわけでは無い。これらは修行中に教えられるものではなく、神憑けを終えて、自ら身に付くものであるとされているのである。だから、イタコの道は非常に険しい。神憑けが何時の事になるのか?まだ判らないよし乃にとっては、それこそ、試練はまだまだ先にあるのである。
そんな、師匠の下に親に見送られながら通い続けているある日の出来事であった。
突然電話が鳴った。そして、そんな時にテレビの音声が耳に入った。それは、今思えば警鐘だったかの様であった。
一週間という修学旅行にしては長い日取りの中のスケジュールの慶太たちを乗せたバスが、トラックとぶつかって高架下に落ちたという夕方のニュースが耳に入ったのである。
確かに、学校の名前は同じである。青森の自分の通っていたはずの学校。そして胸騒ぎがしていた時、
「よし乃ちゃん!大変なことになったわ!お母さん、慶太君のおうちに行ってくるわね!」
今さっき電話を受けた母が、よし乃に言い残して慶太の家へと何が大変なのかも告げず飛び出していった。
母と、慶太のお母さんは幼馴染であって、慶太とよし乃も偶然に同じく幼馴染である。それもあって、両家の家の絆も大きい。きっと、今の電話が、慶太に何か有ったかも知れないとの報告だったのかも知れない。
よし乃は、いてもたっても居られなくて、見えない眼で居間をウロウロと手探りで歩き回った。ジッとなどしていられない。慶太が無事で居てくれますように!と心が騒ぐ。こんな気持ちは生まれて初めてであった。
よし乃は、産まれてこの方誰かの死をこの身で実感などしたことなかった。父も母も、祖父祖母、叔父叔母。家系が、元気で今を生きている。
だから、
「よし乃ちゃん?よく聴いて。慶太君が亡くなったわ……天に召されたのよ……」
そう、母が慶太のお母さんのお宅から帰って来て言った言葉は、余りにも実感がなくて理解など出来なかった。
「慶太が……どうしたって?」
訊き返す。が、母は、もう何も言えないといった表情で、キッチンのテーブルに腰を掛けてうつ伏していた。目にはっきりとは見えないけど、そう感じた。母は泣いているのだと。
「嘘よ!慶太はお土産持って帰って来てくれるって、そうい言ったわ!お母さん、冗談はやめてよ!」
でも何も言い返しては来ない。小さくぐもった嗚咽だけが聴こえた。
「お母さん……?お母さん?お母さん!」
何度も呼びかけた。でも聴こえてくるのは、湿った泣き声だった。
「いや〜〜〜!!」
こうして、よし乃は初めて慶太の死を受け入れたのである。
通夜は、遺体を確認して、連れ帰ってから行われた。
それまでの間、母に変わって父がよし乃の修行のための送り迎えをし、よし乃は師匠の世話をした。
何のために生きているのか判らなかった。
「これであたいは、幸せなのだろうか?」
自分に問いかけた。
生と死。それはこの世の理。
そして、自分は、かけがえの無い人を一人亡くした。
イタコは、死人の霊を憑依させることが出来る人物。そんな者になって幸せなのか?ここに至って初めて疑問が生まれた。
これしかないから、この道を選んだ。他にも道はあったはず。盲学校に行けば済むことだ。でも、自分は敢えて可能性のある物を選んだ。しかし、これが正しいのか?疑問が生まれて、まともに修行など出来やしない。
師匠も、かなり厳しく接してきた。余りにもやる気や覇気が無い自分に気がついたからだろうと思う。
もう、この場所に居たくは無かった。
眼が見えない自分の生を呪った。何もかもが呪わしい気分に陥ってしまったのである。
多分これが、自分の中で最初にして最後の反抗期だったのではないだろうか?と自覚し覚えている。
通夜は一週間後に行われた。
色々手続きや、周りの目が有った為に、この通夜は長引いた。
「よし乃ちゃん。通夜に行くわよ。準備は良い?」
夜、母が自室に訪れて、そう言った。
「準備なんて要らないわ。あたいが居れば済むことでしょ?」
半ば自棄だった。未だ神憑けも出来ない修行イタコ志望の自分が出向けば、周りは落ち着くことだろう。でも、あたいは、何も出来はしない。ただ居るだけの存在ではないか?
ただの、見世物じゃ無いかとさえ思えてくるくらい、今の自分はどうしようもなく荒れていた。
でも、それは、慶太のせいではない。事故を起こした、その方にある。何故こんなにイラつくのだろう?その気持ちを慶太にぶつけてみたくてしょうがない気分で、家を出たのである。
参列者は、学校関係者、マスコミも含めて大々的に行われているみたいだった。
あの事故で、亡くなった同級生は他に五人居たらしい。でも、一人がこれだと、明日の告別式はどうなるのであろうか?皮肉にもそんな事を考えてしまった。
そして、あたいは母に導かれて、中に入った。
狭い部屋に大勢入っているようだった。人々の声がステレオのようにあちらからこちらから脳を刺激する。煩くて堪らなかった。でも、あたしはここに居なくてはならない。判ってる。でも、我慢が出来るかどうかは判らない状態だった。
「よし乃ちゃん。来てくれたのね?」
落ち込んでるはずの、慶太のお母さんが、あたいの所に来て、頭を撫でてくれた。こんな気持ちなのに、優しくしてくれる謂れは無いんだけど。と思ったけど、顔には出さずに置いた。
「よし乃ちゃんに、渡したいものが有ったのよ。これなんだけどね?」
おばさんが、あたいの手を取って握らせてくれたのは、四角い箱だった。
「それとこれ……」
なにやら封筒のような物のように感じる。手触りでそう感じた。
「慶太が、修学旅行のお土産に買ってたみたいなの。運よくバッグの中に納まってたから、良かったわ。それを開けてみたら、よし乃ちゃん宛ての手紙が入ってたの。帰ってきたら渡したかったのだと思うわ……」
その言葉を聴いて、何か頭の中ではじけたような感じがした。あたし宛の手紙……慶太は大事にちゃんと覚えてくれていて、そして、無事届けるつもりでいてくれたんだと気付き、居てもたってもいられなくて、母に読んで欲しいと言った。
すると、母はゆっくりとそれを手に取り、あたしをここでは無い別の場所に促してくれた。
『よし乃へ
元気に、修行頑張ってるか?
こっちは、広島の原爆ドームやら広島球場やら巡って楽しくやってるぜ?本当は、絵葉書でもと思ったんだけど、お前の事考えると、見えないものを見せようとするのって酷かなって思ったんだ。(って、本当は、住所を控えてくるのを忘れたんだけど……)』
ここで思わず噴き出してしまった。慶太のそそっかしい所が目に見えてしまった気がした。
『それで、お土産何にしようかな?と思って、考えたんだけど。やっぱオレなりに気を遣って食べる物にしたんだ。広島と言ったら、もみじ饅頭だろ?あ、牡蛎もそうなんだけどさ、生ものだから腐ると困ると思って、やっぱ無難なところ選んじゃったよ。と言う感じで、オレ達は、開放感に溢れて旅してます。帰ったら、もっと詳しく話したい事伝えたい事があるから、修行の邪魔にならない程度だったら、時間ある?オレ楽しみにしてるからな!んじゃ、また改めて!
慶太』
「バカ!帰ってきて無いじゃない!」
あたいの第一声はこれだった。
帰ってきて欲しかったんだって今初めて判って、何も映らない目から涙が零れた。次から次へと流れ落ちてくる。それを止めることが出来なくて、袖でゴシゴシと拭き取るしか出来なかった。情けない。こんな自分がいたなんて思いもしなかった。気丈で、逞しい自分のイメージをここで潰してしまった気がした。それも悔しい。けど、自分が慶太の事を好きでいたことに気がつかなかった、その事にも腹が立った。自分に腹が立ってるんだと気付いたら、また涙が出てくる。
「よし乃ちゃん?そろそろ……」
母は、あたいのこんな姿をどう思ってみてるんだろう?今まで見せた事の無い自分の姿。こんなに泣いたことなんて無いだろうに……
「まるで、赤ん坊の頃のよし乃ちゃんの様よ?そろそろ、帰らないと。明日、また修行が有るのでしょう?慶太君も、こう言って手紙をしたためてくれてたのだから、貴方も頑張らなきゃね?」
母は、最近のあたいの様子をちゃんと見ていてくれてたのだろうか?あんなにバタバタしていたのに……そう思うと、あたいは、
「おばさん。ありがと……あたい頑張るから!告別式出れないけど、絶対、慶太の事忘れないから!」
心の底からそう言い切った。
こうして、自分の中のモヤモヤした感情を洗い流して、やっと自分の歩んでる道を再確認した。
「あたいは、不幸な身の上なんかじゃ無いわ!」
と、帰りの道すがら、母に宣言するかのように、言い残した。
それからは、自分の道。死霊の口寄せ(仏おろし)を出来るまで諦めないことを誓った。その最初の人物は、慶太。
話したかったこと。伝えたかったこと。それらを聴きたかった。
イタコは、死霊の魂を自分自身に降ろすことも、第三者に降ろすことも可能なわけである。それが出来るまでは、修行を怠る気は無かった。
「母さん。あたい、修行は通いじゃなくて、師匠の所に住み込みでやりたいんだけど」
そう言ったのは、告別式が終わってから三日後であった。
真剣に取り組みたかった。もう、何も失う物が無いと判断したからである。きっと、慶太以外、好きになる人はいないだろうし。それに、この道を歩めば、きっと慶太にも会える気がしたから。
「よし乃ちゃんがそう決めたのなら、私は反対することは無いわ?お父さんはどう?」
母は父に話を振った。
「良いだろう。一人娘を手放すのは寂しいが、それで、お前が納得できるのであれば、父さんは何も言わない」
ちょっと、悲しげな声でそう言った。だけど、あたいは自分で決めたこの道を、歩むつもりだった。それが、自分のためであり、父や母の手を煩わせることの無い一番のことである。だから、
「お父さん、お母さん。今までお世話になりました。よし乃は、頑張ってイタコ修行に勤めます」
畳に手をつき、今までお世話になった事を詫び、そして、感謝した。
その次の日から、あたいの新しい門出が始まったのである。
「一年ですね。よし乃さん?」
そう、あたいがこの修行を初めて丁度一年が経った。
師匠は、まるで永いことここに居座っているかのごとく、あたいを見ていた。でも、未だ一年だ。
「私は、あなたがもう、ここを出て行っても言いと判断しております。貴方は飲み込みが早い。そして、努力家でした」
一年という短い歳月で、ここを去っていいと言う事は、稀なことである。普通、二年から四年掛かるものだと聴かされていた。
「師匠?あたいは、本当にこれで大丈夫なのですか?まだまだ、勉強することが有るのでは無いのですか?」
その問いに、
「いいえ。もう、あなたは独り立ちできます。ただ心配なのは、その歳で、独り立ちできるかと言う事です……」
ああ、そう言うことなのかと判断した。つまり師匠は、独り立ちをさせたくても、年齢が心配なのだと言う事。
「判りました。そう言うことでしたら、もうあたいは大丈夫です。歳を気にしてらっしゃるのでしたら、ご心配無用です。あたいこれでも立派に大人だと自負しておりますから!」
心配は要らない。だってあたいは強いから!
そう考えて、応えた。
「あなた自身がそう思っているのでしたら、問題は有りません。でも、大変だったら、私の事を思い出しなさい?私はあなたの事をいつまでも、思っておりますからね?」
師匠は、優しくそう言ってくれたのであった。
「では、式は?」
「貴方が望む通り」
「それでは、二週間後に。あたいは、それまで『神憑け』の儀式のために精進します」
急ぐ必要は、立派にイタコとしての業績を上げたいから。では無かった。ただ、慶太の事が頭にあった為である。
それからの『神憑け』までにやる事は次のようなことであった。
穀断ち(修行または立願成就のため、ある期間、穀類を食べないで生活すること)
火断ち(神仏への祈願や病気治療のため、ある期間火を使わないで生活すること)
塩断ち(神仏への祈願や病気治療のため、ある期間塩けのある物を食べないこと)
などの断ち行。
水垢離(冷水などを浴びて身を清める)
などの潔斎精進。である。
それらを何とか乗り越え、あたいは、神聖な『神憑け』の式当日を迎えた。
『神憑け』をする当日は師匠の家に、家族親戚などが集まる風習があり、あたいは両親を呼んでおいた。その他の親戚一同は、あたいには呼ぶ必要が無いと判断したからである。
そして、師匠と対座し、『神憑け』の儀式は始まる。
基本的に、祭文や経文を暗誦し、精神がトランス状態(失神などの変化)になるまで行われる。
あたいは、それが自分の身に起こるまで暗誦し続けた。まるで身体と精神が分離するかのような気分で、行った。
そして、それは、無の境地のような気分がした時に体に重い物が圧し掛かるような気がして気絶したのであった。
こうして、気絶している間にあたいの守護神が『百虎』、ということが判り、無事『神憑け』は終了した。
あたいは、心配してくれていたそこに居た人々に感謝の意を込めて礼を言った。みんな、ホッと安堵したかのような感嘆の声をあげていた。みんなの表情が読み取れないあたいは、それで満足できた。
こうして、あたいと言うイタコが完成したのである。
あたいが、イタコになったその理由のうちに、慶太の言葉を聴きたいと言う事が念頭にあった。それを成就するために、あたいはここまで頑張ってこれたのだと思った。
だから、実行した。第三者の身体を借りて……