#6 光と影(前編)
▼光と影(前編)
「よし乃!今日はそのくらいにしとかないか?」
少し甲高い少年の声が教室中に響いた。
「もうちょっと!あたいの気がまだ済まない!」
部活動の美術室。皆もう帰宅して、よし乃と慶太しかここにはもういなかった。窓の外はもう夕暮れで真っ赤な夕陽は既に沈んでいた。蛍光灯の光が鈍くこの部屋を照らしている。
「慶太はもう帰ったって良いんだよ?あたいはまだコノ作品を仕上げてしまいたいんだから」
熱心に取り組んでいるのは、文化祭用の油絵。南の島を連想させる抽象的な、そして青を貴重としたダイナミックであり且つ所々繊細な筆運びが印象的な絵。
「まだやって行く気かよ……んじゃ俺も残ってやる!お前独り残していけっかよ!」
「その心配性どうにかした方が宜しくてよ?」
熱心にキャンバスに向っているよし乃は、クスクスと笑っている。
慶太は、よし乃の同い年の幼馴染み。視力がおぼつかないよし乃のことをいつも心配し、登下校を共にしている仲睦ましい二人だった。もちろん、この部活に入ったのもよし乃が望んだからであった。
よし乃は眼鏡を掛けたとしても見えない、低下してしまった視力ではもう描く事が出来ない風景を、今は抽象画として表現する事に夢中になっている。
そうする事で、今の自分を表現したかった。そして、この目が見え無くなった時の為に、こうして何かを残しておきたかったのである。
慶太はそのよし乃の気持ちを重々承知していた。
だから、そのことにいつも付き合った。
慶太は、よし乃に甘くも切ない恋心という物を抱いている。見かけだけでは無い心の強さ。何事にも積極的に。そして、前向きなこのよし乃に魅了されていた。でもそれは、儚い気持ちである。慶太の実らぬ恋心。
よし乃の眼が見えなくなる。それはもう時との戦いであった。そして、慶太にはイタコとしての道を歩んで行くよし乃のその姿が、背中合わせで取り組んでいるこの作業の中、よし乃の背中に幻として見えていた。
そして、いつも寂しくなる。何故、神様はよし乃にこんな運命を背負わせたのか?何故自分をよし乃の幼馴染みとして出逢わせたのか?光り輝くこの世界を、そして、暗闇を一度に背負わせているのか?
再び、麗太は自らの作品を仕上げようと、筆を取る。不思議なもので、こうやって二人しかいない美術室は静まり返っていても、肌を寄せあって過ごしているような感覚を覚えてしまう。そのくらい心地が良いものだった。
あれからどのくらい時間が過ぎただろう?慶太は肩を叩かれてハッと熱中してしまった作品から筆を置いた。
「終わったわ。もう帰りましょう?」
よし乃のキャンバスに描かれたその絵は、戦いの裏に隠された平和をイメージさせるような印象を与える素晴らしくも熱意篭ったものであった。
「何突っ立っているの?」
よし乃は、自らのキャンバスの前で立ち尽くしている慶太を訝しく振り返った。
「ううん。なんでも無い。オレ、この絵好きだぜ?良い絵だよな〜」
慶太は、袖口でこぼれ落ちて来る塩辛いだろう涙をぬぐい取った。
「そう?ありがとう」
慶太の姿も今こぼれ落ちている涙も、よし乃の瞳には映って無いのであろう。それはとても悲しい事だけど、今の慶太には有り難い事だった。こんな自分を見られてしまったら、今直ぐにでもこの美術室から……よし乃から逃げ出さなければならないほど、恥ずかしい事に思われたから。
「うん。大好きさ!じゃあ、帰ろうか!」
荷物を片付け慶太とよし乃はすっかり暗くなったこの学校を後にした。
「良いなあ〜修学旅行!」
文化祭も無事終わり、このよし乃達の学校は修学旅行と言うイベントを迎えようとしていた。
しかし、よし乃は修学旅行に行く事は出来ない。文化祭の時より低下してしまった視力はもう限界だった。両親も既に、学校に行かす事を諦めてしまい、イタコとして生活するように話を進め始めていた。今は、こうやってよし乃の家を訪ねれば済む事だが、それも後幾日であろう?慶太は自らから離れて行くよし乃を思い虚しさに似た落胆を感じていた。
学校での出来事。それを報告するのが日課であるのにそれさえも出来なくなる。せめて、この修学旅行が終わって帰って来てその報告ができれば……それさえも儚い夢かも知れない。
「小学校の時は、熱出して行けなかったものね。あたい……旅行らしい事なんて一度もしなかったわ。あ、ごめん……余裕が無いのね。こんな愚痴零してしまうなんて」
これは、よし乃の最後の本音かも知れない。よし乃は旅と言うモノを知らない。この青森から出る事等無かったのだから。
「旅行帰って来たら教えてね?あ、お土産も期待してるからね!」
よし乃は見えないドアの外へと吸い込まれていく光の中の慶太の後姿を思い、そして笑顔で見送ったのである。