夏に潜む者『喀血事件』④
鍵が外された扉は、ジルが力を加えるまでも無く「グォン」と鈍重な音を鳴らし開いた。
その瞬間、部屋に溜まっていたらしい、湿気を帯びた圧のある空気が、「ブォゥ!!」と爆ぜるように表へと吹き出した。外気よりも熱のある室内の空気を、顔へまともに受けたジルとダルクは息を止める暇もなく、思いっきり吸い込んでしまう。
刹那の嵐が如く、室内から風が吹き抜けたこの時、2人は1秒にも満たない間、放心した。
何故なら、それがただの空気なはなく……襲い掛かるのは悪臭という言葉では処理し切れないくらいの腐臭であったからだ。そして鼻どころか喉の粘膜すら刺激しながら突き抜ける臭いが直撃した事で、顔の筋肉が硬直したのを感じる。
……2人はこの嫌な臭いを、知っていた。
((間違いない、これは『肉の腐った臭いだ』))
つまり、2人の経験上、知っている臭いの中で、最も最悪なものであった。
人間だからこそ本能が感じ取り忌避し、嫌悪感を覚え吐き気を催す。そんな臭いは一つしかない、動物が腐敗した時に放つ『死臭』だ。
濃密なその臭いを直に嗅いでしまった2人は……すぐさま扉を閉めて、飛び退く勢いで柵の向こうに顔を突き出した。
喉から湧き上がる胃液を我慢し切れず、胃から酸っぱい臭いが鼻を抜ける。やがて喉が大きく震えて我慢の限界が訪れた。2人はほぼ同時に大きく口を開くと
「「ヴォオオェェエエエ!!」」
迫り上がる胃液の圧力に堪え切れず、決壊したダムのような勢いで胃の中の物を全て吐き出した。
汚らしい水音を響かせ、2人分の吐瀉物は宙を舞い、真下に落下する。そして、太陽の光を浴びてキラキラと輝きながら、一回通路の磨かれた石畳に「ベシャリ」と広がった。
やがて胃の中の物をほぼ全て吐き切った2人は、揃って魔法で生み出した水で口を濯いで、柵の向こうに「ペッ」吐き出した。遠慮や良心なんて気にしている余裕はなかった。
口から出す物を出し切り、気分の落ち着いてきた2人は荒い息で深呼吸を繰り返しながら、震える唇を動かした。
「ぜぇぜぇ……くっさ……」
「これはキツイ……おぇっ」
地面に広がる自分達の吐いた吐瀉物を、死んだ目で眺めながらジルとダルクは涙目で嘔吐きながら会話を続ける。
「ほんと、ふっざけんな。トラップかよ……不意打ち過ぎてゲロっちまったじゃねーか……ヒロインだぞ私……」
「あ"ぁギモヂ悪い、予想外すぎるわ。あとお前がヒロインとか笑わせんな」
ジルは一階の地面に広がる、蒸発しかけの吐瀉物を眺めた。そして落下先に人が居なくて良かったと安堵しながら、はてさてどうしたものかと頭を痛める。自分が吐いた物だ、放置する訳にもいくまい。だが職業柄か、あの死臭が気になって仕方がなかった。
(あれは、明らかに『1人だけ』の腐臭じゃぁ、ねぇ……)
人の遺体のみならず、動物の全てが死して腐敗すれば、強烈な臭いを放つ事に変わりはない。しかしである、腐敗臭とは大半が有害な『ガス』なのだ。つまり考えられる可能性として、ドアを開けた瞬間に吹き抜けた風圧は、ガスが溜まった結果だとも言える。
……だが室内の空気圧を上げるほどのガスなど、人間1人の腐敗では起こり得ない。つまり、あの先には最低でも『生き物の遺体が複数』ある……。動物の死体だと思いたいが、探偵をしているうちに嗅ぎ慣れた『死臭』が違うと断言していた。
ジルは後ろ髪を掻きながら思案する。嫌な予想や予感という物は、ここぞという時に期待を裏切らないな、とジルは思った。全く、この『勘』には助けられる事の方が多いにしても、今回ばかりは当たって欲しくなかったと内心で愚痴った。
そして、この案件は探偵2人でどうにかなるのかも怪しくなってきたなと溜息を吐く。ロン・イナニスが失踪したのは、喀血事件の被害に遭ったのではなく、もしかすれば自身から厄介事に首を突っ込んだか、『行方を眩まさなければならない理由があった』可能性が出てきたからだ。
いや……少なくとも、あの部屋の悪臭から『可能性』というよりは『確信』に近いか。
「何から手をつけたらいいのやら」
天を仰ぎ見ながら、今後の方針に対しての迷いを零すジルに、ダルクは柵に体を預けグッタリしながら返した。
「何からって、聖人君子と紳士を気取ったジル公の事だから、私らの吐いたゲロの掃除が先だーって言うと思ってたんだけど?」
「……確かにそうなんだけどさぁ、ダルクよ……今からゲロの掃除する気力、ある?」
半眼で、太陽の光を浴び乾きかけの吐瀉物を見ながら、ジルはダルクに問いかけた。問いかけといてなんだが、ジルはダルクの次の台詞が何となく分かっていたけれど。
「ある訳ないだろ?」
「だよなぁ……お前ならそう言うと思ってた」
心労が顔に出始めるジルに、ダルクは無駄に思考を巡らせ、適当に掃除しない口実文を作り、それを口に出す。
「ジル公さんや、あのゲロはね、乾燥したあと粉塵になってね、風に乗って運ばれて……やがては自然の一部になるんだ。今や失われつつある大自然の糧になる、大切な栄養源へと変わるんだよ。だから掃除せずに放置するのが1番なのさ」
環境破壊が気持ちいいと言っておきながら、自然の糧になるなどとほざくダルクに、ジルは一言こう返すのだ。
「その前に清掃員の人が掃除するだろうよ」
ダルクとジルは揃って体に力を入れて、柵から離れる。そんな中でダルクがほざく。
「清掃員さんの仕事を増やしてあげたんだし、寧ろ感謝されるべきだよね私達」
「感謝どころか、通報されそうだけどな。でも今は掃除なんて気にしてる場合じゃねぇ、か」
2人はお互いに目線を合わせ、1度だけ頷く。それから、ダルクは首に掛けてあったネックレス、その先にある鍵を手に取った。鍵は飾りっ気が無く鈍い銅色をしているが、シンプルゆえの美しさを感じさせる。
珍しく少しだけ神妙な表情を浮かべながら、ダルクは1度頷いて口を開く。
「だね。うん、しゃーないから、借り一つって事でガスマスク貸すよ《鍵箱》」
ダルクは目線の高さに鍵を持ち上げ、虚空に向かって鍵を捻り、回すような仕草をした。すると何もない空間から「ギュオン」とゴム風船を捻ったかのような異音が響き、空間自体が渦を巻いたように歪む。渦の向こうは光をも飲み込みそうな暗黒が垣間見える。そして渦の中からガスマスクが2つ落ちてきた。ダルクはガスマスク2つに付いている紐を器用に片手で掴むと、もう一方の手で再び鍵を捻る。
すると、ガスマスクを吐き出した渦巻く空間は「キュウン」と蛇口を捻った時に出そうな音をを上げて消えた。
この《鍵箱》という魔法は『4次元的空間』との繋がりを鍵という物体に固定し、そこに『物を保存する』高難易度の魔法だ。
端的に、そして簡単に言えば『巨大なポケットを小さくして持ち歩いている』、又は『見た目は小さいのに中の体積が凄まじく広いポケット』である。
そして、『鍵』という媒体が必要な特殊魔法であり、習得できる魔法使いは極一部だろう。何故なら、この魔法もまた名称は確立しており、様々な文献が残っている魔法ではあるが、空間移動魔法の《門》と同じように習得方法は明確にされていない。だからこそ、高難易度に分類される。
そんな高難易度の魔法を、簡単だとでも言いたげな表情で使うダルクに、ジルは誰から習ったのか少しだけ気になった。別に追求すべき問題ではないが、それでも気になってしまった。並みの魔法使いでは到底使えぬ魔法を独自で使えるようになったならば、天才なんて言葉で片付けられないほどの才能だが、そんな人間は『人』と呼べるだろうか。
ジルは有り得ないなと、内心で断じながらダルクが「ほれ」と手渡してくるガスマスクを受け取る。
隣でガスマスクを装着し「スコースコー」と呼吸音を鳴らすダルクの姿が、ふわりとした疑惑を膨張させていく。というか、これはまた通報されそうな見てくれであった。ぶっちゃけ、面倒な犯罪者にしか見えなくて苦笑した。
そして彼女を見ながら再び思考に没する。
彼女との曖昧な契約関係を、今後どうするべきか。
契約上の義務……いや、それ以前に仲間の事を詮索するのは『底の虫』では御法度としている為に聞くのは躊躇われる。たが、やはり雇い主としてはダルクの素性を今後ハッキリとさせたい、そう考えつつジルはガスマスクを装着する。
このご時世、平和になったからと言っても、反乱分子は必ず存在するものだ。テロリスト然り、野心を抱く政治家然り、魔法を使う犯罪者然り。人間が人間である限り争い事は消えない。
だから、この少女が間違った道を進んでいないか、1人の大人として……心配になった。
そんなジルの心中を察したのか、はたまたそういった視線を見飽きたのか。ジルの心の中を覗いたかのような、この場において的確な言葉をダルクは口にする。
「私はさ、人生楽しんだもの勝ちだと思うんだよ」
「……」
ガスマスクのせいで表情は見えない。けれども、ジルはダルクが笑っているように見えた。
「だから私は間違った道には進まないよ。そんなツマラナイ終わり方をするくらいなら、素直に自害する。
まぁ……それでも、ハッキングとかの犯罪はするよ? 刺激があってこその人生だからね。
……そんでもって、魔法に関してはそうだねぇ……私は私が人生を楽しむ為に覚え、使ってる。
人生を楽しんで『あぁ、楽しかった』って言って死ぬ為に。
そして魔法だけじゃないぜ、探偵をやろうと思ったのはそれが動機さ。こんなに楽しいバイト早々無いと思う。
と……変に語ってすまん。ジル公が知りたいのは私がこの魔法を何処で習得したか、だよね?」
ダルクの人生観……どこか達観したかのような目標。しかし、あやふやなその人生観にジルはどこか同感していた。
そして、ダルクの問いの続きを聞く為、首を1度縦に振って肯定する。
「……ふふっ、実は私は人生を楽しむ為に、これでもかと色んな所にコネを作っていてさ。
人間ってのは、1人と付き合えば自ずと付き合う他人が増えていくものなのさ。そんで、その1人に便利そうな魔法を知っている人がいたから修行をつけてもらった、それだけ」
「……お前が犯罪者にならないなら別に下手な勘繰りはしないが」
「気を使ってくれてありがとなジル公。でも……」
ジルは少なくともダルクとは数年の付き合いがある。だから、信用は元からあった。この少女は愉快犯な性格を持ってはいるが、ちゃんと筋を通す人間だ。だから、彼女の一件軽そうに聞こえる言葉に嘘がない事を自身の『勘』が断言してくれた。
そして、ダルクはほんの少し間をあけた後で、くるりと振り返りガスマスクを態とらしく「シュコー」と鳴らし明るい声で言うのだ。
「女の子は沢山秘密があった方が、魅力的なんだぜ?」
……ガスマスク越しにウインクをするダルク。ジルはマスク越しでなければ、きっと心臓が高鳴るくらいには魅力的に見えたのだろうなと少し残念に思った。
「んじゃ……そろそろ行こうかジル公」
「……そうだな」
不謹慎だが、しかし今からの調査が楽しみで仕方ない。そんな様子を隠す事のないダルクを見て、ジルは少し口の端を上げた。
そして、自分もまた同じである事を知りながら、ロン・イナニスの自宅へと再び向かい、ドアノブを掴んで捻った。
この事件がどのように決着するのかは分からない。だが、しかしこんな奇怪な事件は久し振りで……危険への好奇心というのは、幾つになって無くならないものだと苦笑した。そして(どうやら、俺もまだまだ子供らしいな)とジルは思うのだった。
…………………
部屋を開け再び吹き出すガスの風圧を受け切り、玄関に足を踏み入れる。それからゆっくりと扉を閉めて周囲を見渡した。
マンションによくある小さめの玄関には靴が一つあり、短めの廊下の先は磨り硝子の扉で奥が見えない。だが、事前に間取りを確認している為、おそらく扉の先には広いリビング兼キッチンと寝室があるはずだ。
そして、玄関からリビングまでの廊下の左側の壁にトイレと洗面所から風呂へ続く扉があった。トイレらしき扉は閉じられており、洗面所へ続いているであろう扉は開いている。
普通に見える部屋だが、廃墟のような空虚さと息苦しさを憶えた。そして、重くのしかかるような湿った空気が、否応無しに不気味さを増幅させていく……。
ダルクはそっとしゃがみこみ、玄関前のフローリングにそっと人差し指を這わす。すると、指の腹に綿のような埃が付着した。
指についた埃を親指で払い、ダルク立ち上がりながら、ジルの方へ振り返る。
「最低1週間以上、人の出入りは無かったみたいだな」
彼女が何を言いたいのか、ジルは即座に理解した。
「つまり……ロージ・イナニスは息子が失踪した事を知りながら、この家には来なかった。普通はあり得ないよな」
謎が一つ……いや、疑惑が一つ増えた。
母親として探偵を頼る程に心配しているのなら、少しでも手掛かりを探す為に息子の寮を訪れる筈だ。それなのに、最低でも1週間以上、誰も玄関を通っていない。降り積もった埃が、それを証明していた。
やっぱり、簡単な情報だけで満足せず、依頼主の素性をもっと徹底的に調べるべきだったか。そう思い警戒心を高め、ジルは玄関からもう一度部屋を見回した。そして……ある一点の場所に嫌なものを見つける。
「なぁ、ダルク。洗面所の入り口に足跡みたいなシミがあるの、見えるか?」
「んん? あぁ、赤黒いあれ?」
薄暗いせいか黒に見えなくもないが、よく見ればほんのりと赤色が見える。そんな感じのシミが、洗面所前に薄っすらと付いていた。
そして……この場において、思い浮かぶシミの原因は一つしかない。
「血の跡っぽいね」
「やっぱりそう思うか?」
「そりゃ、散々見てきてますから」
「嫌な自慢だ、まぁ俺もそうだけど」
ダルクもそう思うなら、きっと血の跡で間違いない。
ならば、丁度いい。手前から調べる口実ができた。
「じゃあ……最初は風呂場から調べるか」
「りょーかい」
2人は同時に玄関からフローリングの上へ土足で上がり、進んで行った……。




