夏に向けて side②
元々この洋館自体、異質だった。人知れない湖の畔に建っていたのも、洋館の大きさの割に全く部屋が使われていなかった事も、人の出入りした形跡がない事も。全てがおかしかった。
そして目的に主軸を置いて動きすぎていたようで、周りが見えていなかったらしい。
相手の目的も、自身という存在が脅威になるという前提で物事を考える事をしていなかった。
だからこそ、ここは相手の術中であり、自分はそこ「突っ込んでしまったという事を、気がついていながら無意識に忘れていたようだ。矛盾した2つの考え方。だからこそ、実に上手く嵌められた事を思い知らされる。
罠を罠と思わせない。本当に上手く欺かれた。やられた、とデイルは内心で悔しく思う。
……目の前にある絵画に変化が起きた。何が起きているのか、なんの魔法なのかは不明だが……自分の《境界線の黄金剣》による魔力払いを耐えた上で、さっきまで欠けらも気配を感じなかった魔法だ。下手をすれば自分も知らない未知の魔法と、初対面で対抗しなくてはいけなくなる。
一先ず、洋館から脱出するべきか。
だが、しかし、現状下手に動く訳にもいかなくなった。目の前の絵画の変化に目を見張る。目を離せば、その瞬間背中を刺されそうな、嫌な気配だ。《薄結界の外套》ですら、もしかしたら軽々しく貫通してくる魔法かもしれない。そうなれば、老いた体では少々厳しい。
だからこそ、目の前で目まぐるしく変化する景色への警戒に徹しながら、思考を急速に加速させ、記憶を探る。けれど、該当する魔法は幾つか思い浮かんだが、どれも違う気がした。
「これは……なんの魔法じゃ……」
魔力が、溢れ出るように急激に高まっていく。
絵画がまるで水が沸騰するように泡立ち、コポコポと気泡が潰れる音が鳴り、赤黒く粘り気のある液体を滴らせる。滴った液体は床に水溜りを作り、波紋が広げる。赤黒いのと独特の粘性のせいで、血溜まりのように見えた。
そんな絵画の中に描かれている、怪しく首を吊るされた人の絵。
その頭が……コマ送りのようにゆっくり動き、そしてこちらに顔を向けるのが見えた。
絵画の絵が動いた事にも驚いたが、そんな事よりも、より不気味な事がある。……目も鼻も口も描かれてはいない、赤黒く濁った人影の絵が笑ったような気がした。
「《結界魔法》!!」
背中に氷柱を突っ込まれたような寒気が走った。
危機感、又は虫の知らせとも言うべきか。デイルは何かを感じ取り咄嗟に身を守る為、自身を基点に長方形の結界を張る。そして、この判断は正しかった。
結界が構築されたその瞬間、爆発したかのように絵具が爆ぜ、絵画が液体を撒き散らした。そこから濁流のように黒い液体が流れ出し、止まる事なく吹き出し続ける。洋館を押し潰す勢いだ。このままでは、重みで洋館が崩壊しかねない。
不味い、脱出しなければとデイルは片足を引き後退った。しかし、自身の周りに粘り着く赤黒い液体を見て驚愕する。
「結界を……溶かしているのか?」
液体が徐々に結界を侵食し、虫食いのように穴を開けていく。更にそこから液体が流れ込んでこようとしていた。デイルは咄嗟に結界を再構築するも、まるで新しい結界を喰らうように、粘力のある液体は纏わり付いてくる。
魔法を構築する上で必要な魔力を取り込んでいるのだろうか。だが、取り敢えずここにいても良いことなどない。
「このまま外へ出るとするか」
このまま結界で液体を防いでいても平行線、それに考察を続けたところで絵画の魔法がどのようなものか、検討がつかない。というより、この館全体を《境界線の黄金剣》で薙ぎ払った筈なのに、どうして魔法が発動している?
分からないという事は、新しく作られた何かしらの魔法か。
そう判断し、纏わりつく液体に触れたら厄介そうだと思ったデイルは、取り敢えず外に撤退する為《門》を発動させて扉を前方に出現させる。
しかし、開けた扉の向こうは、どこにも繋がっていなかった。扉を開けた先は、迫り来る液体を映している。
「なっ……あぁ、そうじゃったな! 罠というのはそういうものじゃ、全く……本当に良い趣味をしておるわ!!」
驚愕を超えて絶句しながら叫ぶ。自分の魔法が無効化された……いや違う、外への座標指定ができなくなっている。
《門》の魔法というのは、意外と様々な制約がある。細かく分ければかなり小難しい魔法なのだが、今は省略して……簡単に言えば構成するのに必須になる要素が、転移する場所へ『次元の空間を越える為に必要な両座標の指定』。これは繋げる場所を指定すると考えてくれればいい。
それから『ワームホールの疑似理論による空間トンネルの構成』。これが最も難しい。なんせ空間に別次元の穴を開けるのだなら。敢えて疑似理論と言われているのは、物理学が元になったにも関わらず物理というモノをまるっきし無視したものであると同時に、色んな分野に喧嘩を売るような、文字通りトンデモ魔法なのだ。
そして最後に、地面に降り立つのに必要であり、尚且つ空間を固定する為に必要な『扉』。それらが合わさり《門》という魔法は構築されるもの。ついでに付け加えると、『扉』を一々作るのは空間を固定する役割に加えて飛んだ先が石や地面の中ではない事を確認する為でもあるのだ。
そして今、向こう側へと座標の指定ができなくなっていた。座標の指定ができないと、空間のトンネルも作れない。つまり、この洋館では《門》の『扉』は普通の扉に成り下がる。
ここまでピンポイントな罠となると……。
「少なくとも、わしかグレイダーツ以上の魔法使いが来る事を想定しての罠かのぅ? じゃが、ならば破壊して逃げれば良いだけの事……《結界の暴風爆発》!!」
結界が崩れると同時に破片が高速で回転を始め、液体を薙ぎ払っていく。さらに回転が加速すると範囲も広がり、洋館の壁と天井を砕き吹き飛ばしていった。
それが致命傷になったのか、洋館がグラリと揺れて崩壊を始める。亀裂の走る洋館から脱出するべく、デイルは天井にできた穴へと《念力魔法》で身体を浮かべ空へと飛んだ。
だが瞬間、身体に何十キロもの重りを乗せられたような引力が自身を襲う。
「ぐぅう!? くっ、《結界壁》《縮地》」
咄嗟に空中へと結界の足場を作り、魔力を纏った足で蹴った。距離を一瞬で詰める『仙法』を魔法で再現した《縮地》は、ひと蹴りで瞬時に移動できる技術なのだが……しかし今は身体を捉える謎の重力のせいであまり距離は稼げなかった。更に《念力魔法》ですら飛べなくなりデイルの身体は洋館の玄関近くに落下していく。
デイルは全力の《念力魔法》で抵抗しながらも、地面に向けて幾つかの魔法を発動させた。
「《身体強化》《水の球体》」
来るべき衝撃に備え、水のクッションを作り、身体に強化魔法をかける。
そして1、2回瞬きをした時には、水のクッションの上にいた。しかしそのまま貫くようにクッションを貫通する。
落下した身体は水のクッションのおかげでほんの少しだけ速度と衝撃が和らいだが、それでも止まる事なく地面に縫い付けられるように叩きつけられた。土埃が舞い上がり、体の節々に鈍痛が響く。
水のクッションが役割を終え崩壊する中、《身体強化》による脚力と《境界線の黄金剣》を杖にしつつ無理矢理に立ち上がるも……腰をあげる事すら苦痛なレベルの強い引力だ。地面への降り立ち方を一歩間違えば、潰れたトマトのように頭が潰れ、脳漿をぶちまけながら死んでいたかもしれない。
「重力系統の魔法……か、老体には中々の仕打ちじゃのぅ……《解呪》」
期待はしていないが一応《解呪》を全身にかける。だが、思っていた通り全く効果が無かった。どうやら、自身の体に直接、魔法や術をかけられているわけではなく、自分の周囲の空間を基点に引力が強くなっているようだ。つまり、どこかにある魔法の元に《解呪》を当てなければ意味がない。
だが、よく見れば自身の足が地面にめり込み小さな亀裂が蜘蛛の巣のように広がっている。段々と強くなっているらしく、あまり時間は残されていないようだ。
「まずいの、動けなくしたという事はつまり次に来るのは……」
だいたい、魔法使いの戦いにおいて、この考え方は意外と有効だ。
『次に相手はどうするか、を自分に当て嵌め考える』
単純明快な考え方である。
相手が……罠にはまった、攻撃で有効打を与えた、護りの魔法が成功した、解呪できた、自身攻撃魔法の準備が終わり相手はそれを察している、次は護りに入るのか攻撃に転じるか……など。
相手がどうするかを考える事は、下手に思考停止するよりも動ける事が多い。
だからこそ、わりとピンチなデイルは相手の次の行動を思考し、予測し準備する。
「間違いなく攻撃じゃろうな……」
絵画から溢れた、魔力溢れる液体がただの液体な訳がない。というより、自分の結界を溶かした時点で何かある。が……どちらにせよ出方も分からなければ反撃の手立てもない。
デイルは地面に突き刺さる《境界線の黄金剣》に魔力を流し込む。
黄金剣は複雑な線模様を描きながら、「クゥゥゥゥウ」と唸った。
「まさか、こんなに早く切り札を1つ、切ることになろうとは……《境界の法『浮世の身体』》」
デイルが魔法を使うと同時に、洋館が液体の重みに耐え兼ねて遂に崩壊を始める。そして崩壊は一瞬だった。
壁に無数の亀裂が入り、柱は折れ、窓は砕ける。埃に混じって液体も撒き散らし、「ドォオゥゥウン!!」と轟音を響かせ盛大に崩れ落ちた。
散弾のように降り注ぐ残骸物と舞い上がった埃が視界を奪う。
そんな視界の悪い中、更にその奥。残骸物をも飲み込みながら赤黒い液体を撒き散らす、巨大な黒い手がデイルを握り潰そうと迫っていた。
……………
「ほーん、重力系統の魔法ねぇ」
デイルの話を聞いたグレイダーツは、煎餅を齧りながら呟いた。自身が得意とする召喚魔法同様に、最近では廃れてきた魔法だったからだ。
「魔法のカテゴリー的には、あんまり使う人がいない魔法ですよねぇ。中二心は擽りますけど」
同じ事を考えていたらしいジルが、簡潔に現状を呟いた。私はそれに同意して補足の説明を入れる。
「物理法則とかガン無視の『魔法』で唯一、重力やら引力の法則やらを計算したり勉強したりしなくちゃいけないからな。それに、例え習得出来たとしてもせいぜいが《反重力》や《負荷重力》の魔法くらいだし、人気ねぇのも頷けるわ」
「確かに《反重力》なんて空飛ぶくらいしか使い道ないですもんね。ぶっちゃけ《念力魔法》の方が便利ですし……あれ、でも《負荷重力》って重力? か、引力なんかを強くしていく魔法ですよね? 重力や磁力を極限まで高めれば、場合によっては疑似的なブラックホールを作る事も可能でしょう? これって、場合によっては『時間』を超えたりできるんじゃ?」
「無理無理、できない。いや、確かに『理論上では可能』だけど……もし時間を超えたいなら、その前に『光の速度で動いてもバラバラにならない身体』と『ブラックホールに突っ込んで潰れない身体』があるってのが最低条件だな。
というか、理論云々の前に大前提が『ブラックホールの生成』だぜ? こんなところでブラックホールなんて作ったら滅ぶわ」
「あぁ、確かにそうっすね。というかブラックホールが作れる程、重力魔法を極められるとも思えませんし。それに仮に作れたとしても、光の速度で動けたりブラックホールの重力に耐えれる者は最早『人間』とは呼べないっすね……」
「そういうこった」
「でも、なんか夢がありますよね。こういう話って。
もしかしたら、すっごく昔にネットの掲示板で予知を残していった『ジョン・タイター』は重力魔法を極めて、時間を跳躍してきた可能性も出てきた訳ですし」
「言われてみれば、そうか。理論上は可能……という事は数百年後の未来なら技術も魔法も向上して、もしかしたら可能かもしれないな」
「なんかワクワクしてきました」
なにやら重力魔法と時間跳躍に関しての討論を始める2人。このままでは何時迄も話し続けそうで、いい加減痺れを切らしたデイルはわざとらしく「こほん」と咳をして話を中断させる。
「そろそろ、続きをいいかのぅ?」
デイルの問いに、グレイダーツはヒラヒラと手を振り、ジルは小さく頭を下げた。
「あいあい。どうぞ」
「さーせん、続きどうぞ」
「全くお主らは……まぁいい。では続きじゃが……」
………………
濃厚な魔力の香りが周囲に充満し、野生の動物はおろか魔物ですらこの地には近づかなかった。その元凶となっている大きな黒い粘体は、蠢きながら伸ばした手を確認する。
デイルを握り潰した手を開き、館の残骸を纏いながら球体の形をとった液体は、中央に大きく紅い目を見開いた。血を固めたような目は濁っており、生気は無い。
そんな目は何かを探すように「ギュロ、ギュロ」と粘着質な音を立てながら、目は四方八方にぐるぐると動く。
理由は、掴んだ手にデイルの姿は無かったからだ。そして見渡していたその時、粘液体は背中に突き刺すような衝撃を感じる。粘液体は目の位置を背後に向けると、デイルが《境界線の黄金剣》を突き刺している姿が見えた。
「捉えられんよ、お前なんぞには」
粘液はデイルが己を侮っている事を理解し「キィィイイイイ!!!」と金切り声をあながら粘液体を練り上げて無数の触手を形成する。触手の先端は鋭く尖っており、人の身体など容易く貫くであろう鋭利さを感じさせた。
デイルは『重力から解放されたような』軽々しい動きで後ろにバックステップを取る。と同時に粘液体の触手がデイルを貫き殺そうと無数に迫ってくる。
速度は刹那とも呼べるレベルの速さ。ただの一般人であれば瞬き一つで串刺しになる事は必至の速さだった。
しかし、目の前にいるのはかの大戦を戦い抜いた『英雄』だ。
触手とデイルの剣が交錯し、「キィン」と軽い鈴のような音を響かせて、触手が大きく仰け反った。デイルの剣により弾かれたようだ。仰け反った触手はそのまま魔力を失って崩壊し、液体に還る。だが、粘液体は気にせずに数で攻めようと攻撃を続けた。
実に、一秒間で10本以上の触手が貫かんと迫る中、デイルは踊るような動きで全ての触手を弾き、斬りふせる。
老体とは思えない程に洗練された高速の剣戟は、無数の軌跡を残す。
槍という先端の細い武器で、更に速度も残像が見えるレベルの物に自分の武器である《境界線の黄金剣》の刀身で弾く。最早、神業の領域だ。その反応速度は、人間の域を超えている。
そして、他人が見ればきっと、綺麗だと形容したくなるくらい剣の軌跡と煌めきは美しい。しかし、ここに観客などいない。いるのは狩る者はと狩られる者だけ。
幾秒もの間続いた剣と槍の殺し合いは、デイルが全てを斬り伏せた事で終りを迎える。
すると、不気味な静寂が辺りを包んだ。そんな中、デイルは不敵な笑みを浮かべて大きく深呼吸をする。息をつく間もない高速戦闘だったのだ、相手が準備を終えるならばこちらも次に向けて体調を整えるのに時間を使う。
そしてついでに、相手にわざと聞こえるように挑発の言葉を呟いた。
「ふぉふぉふぉ、優しい攻撃じゃのう、欠伸がでる。……このわしを殺したくば、今の10倍はもってこい」
粘液体はデイルの挑発を理解し、「キィィァァァア!!」と叫びをあげながら、今度は剣のような刀身を模した触手や、先端を分厚くした斧や金槌などの触手を作り、デイルに斬りつけ、叩きつける。
激昂しているせいなのか攻撃速度は変わらないが、狙いがさっきよりも大雑把になった。ここまで適当に攻撃されては、防ぐのは実に容易くなる。
デイルは冷静に、そしてさっきよりも余裕を持って対応する。斧は刀身の中央を叩き折り、金槌は《結界魔法》で弾き、槍は剣で対応する。触手はデイルが攻撃を加える度に崩壊を続け、段々と数を減らしていった。
デイルはそれを好機と見傚し《境界線の剣》を腰に添えるように構え、真横に振り抜いた。
「払え、《境界線の黄金剣》!!」
「グォン!!」と重音が轟く。
隙だらけの粘液体は、デイルの一撃をまともに受けた。
真横に吹き荒ぶ黄金色の魔力の風は、粘液体を中央から削るように切断していく。更にプラスして風の圧力により「ズザザザッ」と地面に引きずられるように、木々を巻き込みながら後方へ吹き飛んでいった。転がる度に「ねちゃりねちゃり」と、森の周囲へ赤黒い液体を撒き散らし、体積を減らす。衝撃で抉れた大きな目からは赤い液体を噴き出し、とてもグロテスクな光景を作り出している。
そして、動きは完全に停止した。
しかし、死んでいるのかどうか分からない為に近づくべきか思案する。
そろそろ『浮世の身体』を使用する為の魔力が切れそうだった。もし、あの粘液体が重力魔法の核でなければ、再び重力の枷が己を襲う事だろう。そうなれば、さっきのような攻撃を捌き切る事は不可能に近い。
だからデイルは思案した結果、今の内に徹底的に追撃して、跡形もなく消し飛ばす事に決めた。
「《焔の渦》《狐火》」
己が使える最上級の炎系魔法で粘液体を取り囲み焼く。赤い炎の渦と青い巨大な火炎が混ざるように重なり合う。熱風により周囲の温度が上がり、上昇気流によって風が荒んだ。デイルは炎を操作しながら森に燃え広がらないよう配慮しつつ経過を見守った。すると、それは突然起こった。
『……ぃぁだ』
粘液体が蠢き、音を発する。デイルはまだ動けるのかと驚きながらも耳を傾ける。何故か、聞かなければいけないという強迫観念に駆られて。
『……ァっイ、ィタぃ』
1人のようで、無数の声を混ぜ合わせたような濁声だ。そのせいで男か女かは分からない。
しかし、重要なのはそこではない。声を発するのは粘液体である、ここが最も重要な事だ。
コレは決して人ではない。にも関わらず、その声には苦痛が滲み、絞り出されたようにか細い。とても、痛々しい呟きだったと思った。そして、デイルは粘液体に『感情』とも呼べる人が持ち得る叡智の一つがあるように感じた。
そんな呟きを聞いたせいで思わず魔法を止めそうになる。
だが「否」と頭を振った。罠の可能性もある……だが、それよりも直感で、このまま焼いてしまった方が良いと判断したからだ。もし、もしだ。あの赤黒い粘液体が、考えたくはないが『人間』を使って作られたモノならば……。
「今ここで、楽にしてやった方がいい」
既に『浮世の身体』の魔法は効力を失った。この魔法は、自分を『世界』という『楔』から切り離し全ての事象現象を透過する究極の防御魔法だ。
この魔法は独自に開発した魔法であり、知るのもまた自分だけ。そして一見最強の魔法に見えるが、しかし欠点はそれはもう沢山ある。まず魔力の効率は圧倒的に悪く、さらに使用後は全身を筋肉痛のような痛みが襲う。そして《境界線の剣》を構築が最低条件である以上、難易度も桁違いだ。
あとは、一つだけとても、とても怖い『もしも』のデメリットがある。
「ふぅ……魔力はあまり残されておらんの。それに全身が痛い」
《境界線の黄金剣》を地面に突き刺し、再び『世界』に自分の存在を固定する。この魔法は、確かに強い。全てを透過し無効化するのだから。
けれど、一歩間違えばこの世から消えてしまうような危険な魔法でもある。
世界から切り離されたという事はこの世の輪廻から外れる事でもあり、自分は一時的に『この世にいない』事になる。つまり、再び『世界』へと戻れなければ死んで終わり。それどころか、存在が無かった事になり、自分を知る人間がいなくなってしまう。世界の修正力がそうしてしまう。
境界線を弄るというのは、それ程までに危険なものなのだ。だからこそ、それ相応のデメリットと対価も必要になる。
久方ぶりの高難度の魔法を使い終え、デイルは深くため息を吐く。手にあった《境界線の黄金剣》は金色の霞となって虚空に消える。
一度の《境界の法》で《境界線の黄金剣》は限界を迎えて崩壊した。
耐久力から見ても……まぁ、よく数分も持ったものだ。そう思いデイルは魔法のリソースを全て炎の魔法に注ぎ、集中する。
普通の魔物であれば、数十秒で灰になる程の火力なのにも関わらず、粘液体は未だ原型を保っていた。数千度の熱に耐えると言う事は……やはりと言うべきか、何らかの方法で自身の魔力を喰らう術がかかっているのだろう。
『ァ……ァァ……』
炎の中、粘液体は無数に人の手を形作り、空に向けては崩れていく。まるで、空に助けを求めるように。誰かに助けを求めるように。
だが、幾度も繰り返されたその行為も終わりを迎えた。
『ァぁ……やっト終われるのカ』
最後の一本が空に伸ばされた時に、粘液体がはっきりそう言ったのが聞こえた。老若男女を混ぜ合わせたような複音だったが、確かな『人』の声だ。
そしてその声には、まるで長年の絶望から解放されたような、心からの安堵を含んでいるように思えた。
炎がパチパチと爆ぜる……粘液体は煙を発しながら石化するように灰色へと変色していき、やがてサラサラと砂のように崩れていった。
………………
「罠にしてはガバガバっすね、その話に出てくる洋館って。話に出てきた粘液体は中々に強そうですが……」
思わず、ジルはデイルの話に口を挟んだ。色々とガバガバな罠だと思ったからだ。仮に相手が英雄が来る事を知らなくても、もう少し上手く細工できるだろうし、態々《門》を阻害する術を施しておいて、館の耐久度は一瞬で消し飛ぶどころか相手の自重で崩壊するレベルのもの。ハリボテもいいところだ。
それか仮に、建物に閉じ込めたところで洋館を崩壊させて相手を殺そうと考えての罠だったとしたら……あまりにも陳腐ではないだろうか。重力魔法を使っての戦法であれ、その程度を対処できないのであれば、恐らく最初の森の襲撃で死んでいる。
そう思っての彼の疑問だったが、グレイダーツは彼の疑問を一刀両断する。
「いいや、それでいいんだよ。これであいつは生きているって分かったからな。粘液体か、全くなめくさってやがる」
どの部分に確信を持てたのか。曖昧な言い回しで理解できず、ジルは首を傾げる。
それでも、グレイダーツはむすっとした顔で口を閉ざしてしまった。
説明する気のなさそうなグレイダーツに代わって、デイルが口を開いて説明する。
「そうじゃのぅ……例えばの話じゃが、お主は殺人鬼の気持ちを理解できるかのぅ?」
デイルの問いにジルは顎に手を当て考える仕草をしつつ「まぁ、普通に考えて無理っすね」と即答する。最初からその返答が返ってくる事を分かっていたデイルは、朗らかな笑みを浮かべながら頷いた。
「要は、そう言う事じゃよ。わしらでは理解できない狂人、それがヴァルディアという名の魔王……。つまるところ、罠なんてつもりは無かったんじゃろうよ。わしらで、遊んだだけ。まんまと釣られたわけじゃ」
「んん……いやま、言わんとする事は分かりましたよ。
つまりは、頭のネジが外れた人間の思考なんて、常人には理解不可能って事でしょう?
……確かに話の中に出てきた『絵画』に使われたのも、おそらく生贄を必要とする《護り人の呪い》ですし。
禁忌魔法って事もありますが、内容も中々にエグくて惨い魔法ですから『常人』なら使わないものですしねぇ……」
頷きながらそう呟いたジルに対して、デイルとグレイダーツは同時に喉奥から声を漏らした。
「「……うん?」」
「……え?」
間抜けた顔を見せるグレイダーツ、気の抜けた顔のデイル、そして半開きの口を閉じ忘れながら固まるジル。
3人は揃って沈黙する。
──奇妙な静寂が流れた。