お風呂
風呂。
それは人間が産まれたままの姿になる場所である。
洗面所の鏡の前に立ち、俺は性転換してから初めて自分の顔を見た。そして絶句する。
鏡に黒髪ロングの美少女が映っていた。
絹糸のようにサラサラで、湿り気を感じる程に艶やかな長い黒髪。こういった髪を『濡れ烏のような髪』と表現するのだろうなと、漠然とした感想を抱いた。
次に、整った形の眉。スッと筋の通った小鼻。
それから目も女性らしく変化していた。男だった時よりも長くなった睫毛、その下にある双眸には、宝石よりも綺麗に見える空色の瞳があり……目の形は勝気な印象を受けるツリ目だが、それが逆にクールな雰囲気を醸し出している。
口にはぷっくりと柔らかそうな桃色の唇があり、口紅など塗る必要が無いくらいベストな色艶があった。
そして極めつけは……肌。
雪のように白い肌にはシミひとつ無く、シルクのように滑らかで、女の子らしい柔らかさがある。ここまで来ると……自分であるという事実を忘れそうになるレベルの変化だ。
「……マジか」
稚拙な感想しか出なかった。
自身の手で頰を触る。柔らかで弾力のある感触が手に伝わった。もちろん鏡の前の少女も自身の頰を触っている。
何度確認してもやはり自分。
そんな自分が今、半裸で鏡の前に立っているのだ。
身長は男だった時と同じで167センチくらいのようだが、体格はまるっきり変わっている。手足の筋肉は男の時と比べて少なくなり、今はキュッと引き締まっていた。同様にお腹周りや割れていた腹筋も無くなり、腰は適度にくびれていた。女の子らしい、出るとこは出て締まるところは締まっている……実に理想的な肉つきである。
最後に、最も目を引く場所は勿論……男にはない二つの、女性を象徴する大きな膨らみ。先端の小さめな突起は、上品な桜色に色づいている。胸自体は、この歳にしては大きい方だろう。少し体を動かせば「ふるん」と揺れてその豊かさと柔らかさを物語っている。
鎖骨周りもスッキリとしており、その上に垂れた黒髪のせいか妙にエロスを感じた。
とりあえず胸を手に持って揉んでみると、程よい重さと柔らかさが手の全体を包む。ずっと揉み続けても飽きないとさえ思えるくらいの感触だ。
と、その時ふと我に返り、そしてリアは鏡を再び見やる。そこに映るのは美少女が自分の胸を揉んでいる景色。
……側から見ればとても扇情的で、魅入ってしまいそうな光景だ。
しかし写っているのは自分なのだ。リアはハッとなって、胸から手を離した。
「何やってんだ俺……」
何かダメな事をしていたような気分になり、落ち込みながらリアはトランクスを脱いだ。
もちろん、そこには長年連れ添った相棒はぶら下がっていない。女性の生殖器へと変化していた。
「本当に女になったのか……」
相棒が無くなった事実が、女になったと言う現実を突きつけてくる。
リアは「はぁ」溜息を吐いてと項垂れつつ、女の子の大事な場所など見た事も触った事もないせいか、複雑な気分となった。これでも思春期である。色々と思うところがある。
と……思った時にふと、リアは不思議な感覚に襲われた。今まで動画で見れば反応する程度には『男として』性欲はあった。しかし、今の自身の身体を見てもあまり性欲が湧いていない。これも、女になった影響なのだろうか?
普通であれば、年頃の男子は女の子の大事な部分など見た日にはムラムラとしてしまう筈なのに、そういった感情が一切湧き上がらない。
それどころか、自身の体の一部か。そのくらいの感想しか抱かなかった。
もしかしたら男から女の方へと、精神が引っ張られ始めたのかもしれない。『性』という大きな壁を、本当の意味で越えようとしている。
いよいよ、いろんな意味で男としての死が近いらしいと瞑目した。だが男に戻れるわけじゃない。もう、どうしようもない事だ。
「汗、流そう……」
できるだけポジティブに思考を切り替え、リアは浴室の扉を開けた。
………
自身の身体に泡立てたナイロンタオルを這わせる。肌がナイロンタオルに擦れる度に程よい刺激が身体に伝わる。
そのせいで、女性が敏感な部分であろう胸などの箇所を這わした時、思わず「んっ……」と変な声が出てしまった。
途端、無性に暴れて恥ずかしさを紛らわせたい衝動に駆られたが、どうにかこうにか抑え込む。きっと赤面しているだろう顔を見ないように、鏡から視線を逸らす。
……次に下半身を洗おうとして手を止める。自分の大切な棒が消えた訳だが……どうやって洗えばいいのだろうか?
女の子の体を洗った事など、ある訳がない。あったら変態だ。
しかし、洗わない訳にも……と考え数分ほど悩んだ末、考えるのが面倒になったリアは、とりあえず上からナイロンタオルを押し付けてゴシゴシと洗った。
そうして全身についた泡を流し、体は洗い終わった。少し痛い。
次に、リアは長く伸びた黒髪にシャンプーをつける。
長い髪ももちろん洗った事などないが……初めての感想としては、割と洗うのが面倒だなと思った。
こうして、全体を揉みほぐしたら、シャワーの栓をひねり、丁寧に泡を洗い流す。
いつもの倍近く時間がかかったが、ようやく全身が洗い終わった。
小さい頃に母がやっていたのを思い出し、見よう見まねで髪を上に持ち上げてからタオルで包み湯船に落ちないようにする。
そうして、ようやく湯船にどっぷりと浸かった。
温かなお湯は全身を包み込みとても気持ちいい。まるで疲れが抜けていくような気分だ。
「あぁ〜」
思わずそんな声が漏れる。もちろん耳に届くのは鈴のように綺麗な女性の声。
自分の声なのに自分の声じゃない。不思議な感覚だ。
「…….ふぅ」
喉に手を触れる。あまり変わったような気はしなかったが、少なくとも喉仏は引っ込んでいるようだ。
「……」
湯船の中で膝を抱えると、フヨフヨと浮かぶ胸が太ももに当たり形を変えた。
「俺は……これから女として生きていかなくちゃいけないのか」
何か大事なものを失った気がして、深くため息を吐く。ため息の音は浴室内を反響した。
(というか、既に男として大事なものは消失していたな)
まぁ……諦めたという訳ではないが、しかし消えたものはどうしようもないのも事実なのだ。だからこそ、できる限りその事を考えないように、とりあえず疲れの抜けた頭で今日の事を振り返ってみる事にした。
そこで、ふと違和感に気がついた。
「というか、いくら中身が変態でも本人の確認なしに性転換魔法なんてかけるか?あれでも、教科書や数々の本に名前の乗る大賢者だし、たとえ弟子でも普通は確認くらいするよな?」
考えると、おかしな事は幾らかあった。
まず、今日の記憶が一部消えている。朝から師匠と魔法の特訓をして、昼頃に休憩したのだが……休憩中の記憶がない。まるで、いきなり眠ってしまったかのように。
その後、ハッと意識を取り戻した時、デイルがしてきた質問も不可解だ。
『何か、覚えていないか?』
何か、とは何なのか。こっちが聞きたい。なぜ1時間も記憶が無いのか。
あとついでに、尻を揉んでいた理由も。
「まぁ、あのおちゃらけた言動からするに考えすぎの線もあるか。どの道、明日からちょっと付き合い方を考えないとなぁ」
再びため息を零し、湯船から上がると浴室から外に出るのだった。
………
で、なんだこれは。
髪をバスタオルでゴシゴシと拭きながら寝巻きのジャージを入れていた筈の籠を覗き込む。
そこには自分の用意した筈のジャージとトランクスの姿はなく、代わりに黒色の女性用パンツとブラジャー、そしてうっすらと生地が透けた黒色のネグリジェが入れられていた。
「母さんかジジイか」
頭に二択が浮かんだが、もし仮にこれをデイルが用意したのならば全力で侮蔑する。
とはいえ、母さんの可能性もあるわけで。
「着ろと? これを? 昼まで男だった俺に?」
黒のネグリジェを両手で掴み持ち上げてみる。
紐の部分は細く肩にかかるようになっており、胸元の薔薇の刺繍がアクセントとして添えられている。だが、黒く透けているのでとてもエロティックだ。
これを着た女の子はさぞかしエロいだろう。リアは内心でこんな服を着た女の子とベッドの上でイチャイチャしたかった、ピロートークなんかをしたかったと悲壮に暮れながら。
「ないわ」
投げ捨てるように籠に戻した。自分が着たら、ある意味エロティックな女の子の姿は見れるだろうが、自分が着るのは…….こう、なんか違う。というより、それ以前に着たらギリギリ保っている男としての精神が一瞬で消え去りそうだと思った。
くそぅ……それでも、ちょっと着て鏡の前に立ってみたいと考えてしまったのが悔しくて内心ビクビクした事実は、まぁ胸の奥にしまっておくとして。
頭をブンブンと左右に振って迷いを切り捨てると、ポイッとネグリジェを籠に放り込み、ついでに下着を手に取った。
これも…なんというか無駄に大人っぽい下着だ。黒いパンツには、同じく黒く薄い布でできた小さなフリルが幾つもつけられておりヒラヒラとしている。ブラジャーも同様で、生地は黒いが所々に花の刺繍などが施されたりしていた。
(というか、完全に親父の趣味だこれ。って事はやっぱ用意したの母さんか。
なんでこんな微妙に心にダメージのくる嫌がらせするかなぁ……。
再三言うが俺、体は女になったけど心は男なんだが)
でも、女の方に精神が傾き始めているのも事実で……。
(あぁ、もう)
ウジウジとした思考は、溜まり積もった苛々と混ざり合い複雑な気分にさせる。
(……流石に真っ裸で家の中を歩きまわるわけにはいかないし、遅かれ早かれ下着がトランクスだけでは駄目だろう。特に胸。無駄に揺れて鬱陶しい)
というわけで、とりあえず下着だけは着ける事にした。
言い訳するかのように、頭の中で仕方ない仕方ないと呟きながら装着していく。ブラジャーの装着は難しいと思っていたが、案外簡単に着けれた。
ブラに胸を締め付けられる感覚は少し新鮮だ。
その上からバスタオルを体に巻きつけ浴室を後にすると、自分の部屋を目指して廊下を突き進む。
階段を登り二階に上がって突き当たりの部屋の前に立つ。そして、ドアノブを掴もうとしたその時だ。
「痛っ」
バチリと電気のようなものが指先に走り、思わず手を引いてしまう。
すると、扉の前に青白い大きな幾何学模様が浮かび上がる。
魔力の感じから、確実に師匠の魔法陣だろう。
「あんのクソジジィ……」
そこではたと気がつく。
推測だけど、もしかしたら師匠と母は結託したのかもしれない、と。
そういうのが好きな母の事だ、もし結託しているのならば、絶対悪ノリしている。
なぜそう思うかって説明をすると。
まず、着るものがなくて仕方なくスケスケネグリジェを着るだろう?
次に服を取りに部屋に行ったら、結界が張ってあって入れない、と。
なら、残る行動は直接母に取りに行く事だ。
そうして、あの2人はスケスケのネグリジェを着て服を取りに来るという恥ずかしくて死にたくなっている俺の姿を見てニヤニヤする作戦、とか推理してみたり?
(……あれ、なんか大方あっている気がしてきた)
そこまで思考を回した時点で、割と苛立ちは頂点近くに達していた。
「俺がこんなにも悩んでるのにどいつもこいつも」
そのイライラをぶつけるように全身に魔力を循環されると、拳を握りしめた。
拳は金色の淡い光を放ち始める。それを確認してから、俺は魔法名を叫びながら拳を振り上げ、加速させた。
「《解呪》ッ!!」
魔法解除系の魔法を拳に纏い、思いっきりドアにぶち当てる。
バチン!! という電気が放電した時のような音と共に、リアの拳と師匠の結界は拮抗するように火花のような魔力のチリを撒き散らす。
だが、少しずつ拳が押し返され始めた。
「くっ、クソ!!あの老いぼれ地味に強力なの張りやがって!!」
だが、対抗策が無いわけではない。
一度で破れないのなら、短い間隔で何発も打ち込めばいい。
リアは全身の筋肉に魔力が行き渡るように意識して、魔法を発動させた。
「《身体強化》ッ!!」
全身が一瞬だけ光り、力がみなぎってくる。
拮抗していた拳を一旦引くと……《解呪》を纏った両拳による連撃を打ち込んだ。
「オラオラオラオラオラァ!!」
50発ほど打ち込んだところで、結界にヒビが入り、バリィンとガラスが割れるような音と共に砕けた。
砕けた結界は空気中に溶けて消えてゆく。
両手は殴打の結果、少し赤く腫れていた。ひとまず応急処置程度に《治癒》をかけておく。というより、まだ痛みが引く程度の《治癒》しかまだ使えない。事、《結界魔法》においては習熟しているが、その他の魔法は入門レベルなのだ。
「っはぁ……はぁ……風呂入ったのにまた汗が……」
無駄な運動により、額に流れてきた汗を手の甲で拭いながら、肩で呼吸を繰り返し体を落ち着かせる。そして、今《身体強化》の魔法を使って実感した。
明らかに筋力が落ちてる。なんなら体幹も変化して、足の踏み込みなどのズレも確認できた。
完全に女になった影響だ。さっき洗面所の鏡で体を見た時も、男の時のような筋肉質な体ではなく、すらっとしてて綺麗な曲線美の女性らしい肉体に変化してた。これは、後々の確認作業が大変だと思った。魔法使いとして、体の感覚はとても大切な事なのだ。
「……それでも師匠の結界程度なら破れるようだし、ひとまずは安心か。……にしても無駄に疲れた」
今度こそ握れるようになったドアノブを掴み、部屋に入ると即座にベッドへ倒れこんだ。
疲れからすぐに体の力が抜け、意識は闇の中に落ちていく。
すぐに眠ってしまったリアは、ベッドの脇に置いてあった携帯端末の画面にメール受信のマークが出ている事に気がつく事はなかった。