1学期⑨
飛び散った扉の破片が淡く魔力となって消える。金色の瞳は隙間から消えていた。
視線が消えたせいか、肩に乗っていた重圧が軽くなる。
が、そう肩が軽くなったのも束の間。今度はさっきの比ではないくらい大きく、空気が揺れた。そして「ズガンッ」と重い鉄球がぶつかったような鈍い破砕音と共に扉は粉々になり、向こうの空間から大きな影が飛び出した。
出てきたのは、まさにファンタジーの存在。そのまんま、ドラゴンと形容できる見た目の黒い漆黒の翼竜。
黒い黒曜石のような鱗や甲殻に包まれた爬虫類を思わせる体躯だが、凶悪な口元から覗く鋭い牙や、筋肉の盛り上がった両手足の強靭そうな爪、そして黒くしなやかな翼と、何でも切り裂けそうな、長い刀のような尻尾。
そして、さっきこっちを覗いていた、大きく冷たい眼光を備えた、美しくも禍々しい金色の瞳。それから、甲殻に包まれたゴツい頭部の左右には、赤黒く曲がりくねったツノが二本、後方に伸びている。
そんな絶対強者は、太陽を背に黒い翼をはためかせた。翼がはためく度に物凄い突風が吹き、吹き飛ばされそうになる。
もはや、信じるしかなかった。これは魔法で作られた生き物でも、幻覚でもない。本物だ、本物のドラゴンだ。
しかし頭の中では『まさか』といった気持ちが理解を阻み、体が自然に動き頰をギュッと抓る。
痛かった。
「わぁお、痛いけど夢かな」
「リア、現実逃避しても無駄だぜ……」
隣で同じように頰を抓っていたレイアが現実を見ろと言ってくる。でも、目の前にラスボスクラスのモンスターが現れたら誰だって現実逃避するだろう?
そんな中、とりあえず突風が鬱陶しいので軽い結界を張っていると、いきなり口を開いたドラゴンが低音を響かせる。
「数十年ぶりに我を呼び出すとは、何の用だクロム」
「喋れるのかよ」と内心思った。
それから、あれがカリスマと呼ばれる風格だろうか。ドラゴンの声に思わず膝をついてしまいそうになるくらいの圧力を伴っていた。口を滑らせたら、一瞬で命の灯火を消されそうな圧力だ。
戦々恐々とするリアとは対照的に、クロムら全く普通の態度で白衣のポケットに手を突っ込んで口を開く。
「ギルグリア、用があるのは私ではない。そこにいるグレイダーツだ」
クロムがクイっと顎で方向を示す。ドラゴンの目がグレイダーツの方を向いた。
「……グレイダーツがか? ……貴様が我に何の用だ。我は何度頼まれても、勝手に我の血を採取した貴様とは契約せんぞ」
少し鬱陶しげにドラゴン、もとい名をギルグリアは言った。
勝手に血を採取って……その血を何に使ったのか何気に……いや、結構気になる。また今度、暇な時に聞いてみようかな。
そんなギルグリアの言葉にグレイダーツは応える。
「いんや違う違う。呼び出したのは私らの弟子にお前を紹介しようと思ったからだ。血は……意図せず手に入ったからいらねーよ」
「ほぉ? 弟子……そこにいる2人の人間がグレイダーツ、クロム、貴様らの弟子か?」
「白髪の方は私の弟子のレイアだが、黒髪の方は……デイルの弟子だ」
「デイルのか? あやつが弟子を取るとは……んっ? んんんっ?」
低く唸りながら、ギルグリアの目がスッと細くなる。品定めするような視線に身動ぎしていると、ギルグリアの身体から白い鱗粉のような光が舞い始めた。
「……美しいな。我が唯一惚れた、あの人間の女に似ている……」
聞き取れない声量でなにやらポツリと呟くと、ギルグリアの身体を炎のような淡い光が包み込む。それはギルグリアの巨体を包む光は徐々に形を変え、小さく収縮していき……やがて、人の形に変化した。
光が篝火の炎のごとく爆ぜる。そこに立っていたのは、1人の初老の男だった。
顔つきは老いてはいるが、しかしまだまだ若さや生命力を感じ、思わずおじ様と言いたくなるような渋さと格好良さを兼ね備えている。髪型はオールバックで色は黒く、目は瞳孔が縦に長く金色だ。そして、頭に生えている二本の曲がりくねったツノが、彼が人ではない事を証明している。
着ている服は黒いコートに茶色の上着。下は黒い革のズボンを履いていた。
どうやら、ギルグリアが何らかの魔法で人へと変化したらしい。
「人の形態を取ったのは何十年振りだったか。まったく、実に窮屈な体だ。だが……まぁいい」
カツカツと革靴を鳴らし俺の方に近寄ってくるギルグリア。リアは思わず後ずさる。すると、彼の口が動いた。
「《龍の眼光》」
彼の目に自然と視線が向き、目が合った。その瞬間、筋肉が硬直したように動かなくなる。それから「逆らってはいけない」という脅迫概念にも似た気持ちが湧き上がり、思考が恐怖に支配される。
手も足も、首すら動かせず、息をするので精一杯だ。しかし、恐怖ゆえか心臓の鼓動だけが意に反して速くなるのを感じた。
ギルグリアとの距離は直ぐに縮まり、目の前に彼は立つ。背の高さは彼の方が圧倒的に高く、見上げれば顔が見れるほど。
そんな状況下で……動かないんだけど、どうしようと思う。まぁ《解呪》を発動できる魔力は残っていないのでどの道抗えはしないのだが。
何とも言えない間で、恐怖に埋め尽くされていた思考に余裕ができる。しかし、だ。
「ふぅん……」
「ひぇ……」
ギルグリアの手がスッと顎に伸び添えるように触れられる。それからクイっと上に持ち上げられた。彼の顔が、息が当たる距離まで近づき、互いの瞳に自分の姿が写る。
(なんだこれ、なんだこの状況!? え? マジで分かんないんだけど……)
混乱し眼を回しそうになる。そんな時、ギルグリアは口を開き問いかける。
「……女よ、名は何という?」
「……へ? リア・リスティリアです……?」
最後疑問系になってしまったが、名を言い切った。すると、ギルグリアは一瞬だけ大きく目を開く。
「リスティリア? あぁ成る程……。リア、実に良い名前だ」
顎から手を離し、何か納得した様子で眼を閉じるギルグリア。
漸く解放されたリアは色々思考が定まらず、一応さん付けした方がいいかな? よし、これからはさん付けで呼ぼうとか、どうでもいい事を考えていた。
だからこそ、反応できなかった。彼の放った言葉に。
「……リアよ。お主、我の妃となってくれんか?」
「……は?」
口が開かない。隣にいるレイアから、どこかワクワクとした視線を感じる。そんな視線を送る前に助けてくれと目で訴えかけると、グッドサインを向けてきた。ちくしょう助ける気ゼロだとリアは内心項垂れつつ。
「我はお主に惚れた。一目惚れというものだ」
「あ、あの……」
「今直ぐお主を連れ帰り愛でたいのだが……。いや、返答など聞かずに連れ帰ってもいいか。力尽くで……」
「何言ってんだこのドラゴン」と口が滑りそうになった。
そして感じた事のない未知なる恐怖……女としての本能的な恐怖が湧き上がってくる。連れ去られたら最後、ドラゴンという絶対強者から逃げ出すことは容易ではないだろう。
更に彼は力尽くで連れ去ると呟いた。完全に事案だ。しかも何をされるか楽に想像でき怖気が走った。ドラゴンに法律が適用されるかなんて分かんないけど、性犯罪者の匂いがする。
なので、返答は当然「無理」だ。彼が女なら少しは考えた。だが、幾らカリスマ溢れる渋くてイケメンな老人の告白であれ、心が惹かれないのだ。変わりつつあるとは言え、まだ精神は男なのだから。
まぁ、ドラゴンって時点で荷が重すぎるし、仮に女性だったとしても、どの道断るつもりだったが。
「……答えを聞かせてもらおうか?」
ギルグリアが急かしてくる。リアは必死に頭の中で単語を探るも、浮かぶ言葉は一言のみ。
言い訳はしない方がいいか。そう考え、どうにか喉を震わせながら、口を開いた。
「お断りします」
「そうか、ならば誘拐するとしよう」
「はっ?」
ギルグリアの背中から背丈ほどもある黒く禍々しい両翼が飛び出し、腕と手には無数の鱗が鎧のようにまとわりつく。溢れ出した黒い魔力が、彼の周囲を炎のように揺らめく。
「お主を我の女に……我のモノにしたい。人間に一目惚れしたのはこれで2度目なのだが、今度こそ手に入りそうなんでな。強引に行かせてもらうぞ。次会う時はベッドの上だ。できれば、私の子供を産んで欲しい」
理解が追いつかないリア。子供って……子供産めるのか? 確かに生理は何回かあったけども……など現実逃避してしまう。
しかし、時間は無情にも過ぎ去るもので。強引に連れて行かれれば勝ち目はない。
ここで抵抗しないのはまずい。
「いやいやいやっ!? だからって強引に連れてくのは違うだろう!? というかベッドの上ってなんだよ、何するつもりだ!? おいこっちくんな《結界魔法》ァァア!」
魔力を絞り、1枚の結界を張る。
「結界魔法か……ふむ、確かにいい魔法だ。だが……人間の魔法ごときが我に敵うと思うな《順序破壊》」
「ふぇ?」
しかし、なんの脈絡もなく、なんの衝撃もなく。魔力の流れすら感じないまま、結界は脆く崩れ去った。まるで風が吹いた時に舞い上がる落ち葉のように、唐突にあっさりと。
……ダメだ。さっきの戦闘で魔力を消費しすぎた。たった数分程度では、結界一枚張るのがやっとの魔力しか回復できない。残念な事に魔力回復の水薬もない。詰んだ、万事休すだ。
ギルグリアは立ち尽くすリアの背に腕を回し、片手で後頭部を支えるように掴みながら、満足そうに目を細める。
「妖艶さを兼ね備えた美貌も、空色の綺麗な瞳も、全てが美しい」
ギルグリアの唇が妖しく動く。それから彼は指で髪を弄びながら、スッと、耳元に息が当たる距離まで口を近づけた。
「絹糸のように質のいい黒髪も、白く滑らかな肉付きの良い身体も、我の好みだ……やはり、何をしても欲しい。リアよ、お主が……欲しい」
ゾクリとするような、脳を痺れ麻痺させる甘い囁き。それは男とか女とか、性別という括りなんて関係なしに、理性を溶かしてしまう魔性の囁きだった。
「我の女になれ、リア」
「っはぁ……んっ……」
今度は違う意味で体が動かない。
そしてこの瞬間リアは……女になって初めて、自身の体が『女』なのだと実感した。
実を言うと、腰が砕けていた。
股から甘い電気のようなゾクリとした感覚が背筋を駆け抜けて、ガクガクと足が震えてしまう。そして、震える度に甘い刺激が脳を揺さぶる。ふわふわとした感覚が全身を包み込む。
あぁ、溺れてしまってもいいのではないか?
この快楽の波に。
(目の前の男に組み伏せられたら、俺は……どうなってしまうのだろう)
そんな事を想像している時点で、心がドロドロに溶かされて、彼に魅了されており、心が完全に蕩けている事を証明していた。彼の姿に、そのカリスマに、心酔してしまっている。
顔を近づけるギルグリアの瞳に、涙で濡れそぼった瞳で、顔をだらしなく蕩けさせる、自分の姿が映った。
なんで……なんで、こんな顔をしているのか。まるで……雄に発情した雌の表情ではないか。でも、分かっていて尚、胸の鼓動が収まらない。顔の表情筋が動かせなかった。頭にフィルターがかかっているようだ。
リアの精神……いや、リア・リスティリアという1人の人間が、堕ちていく。どこまでも……。




