第2話 近衛兵
帝都中央街区、元近衛軍団基地
西方帝国において皇帝の身辺を守護する近衛兵団は、現在開店休業中。
看板こそ往時と変わらず掲げているものの、西方帝国皇帝が力を失うのと同じくして近衛兵団も有名無実化していったのである。
かつては帝都の守備と治安維持を担った近衛兵団は、兵団自身も帝国軍部との派閥争いに敗れてほぼ消滅状態で、兵員はかつて7000名の軍団編制だったものから現在は僅か300人の半個大隊編制へと削減されてしまっているのだ。
最早儀仗や皇帝宮殿の雑用以外に役に立たないばかりか、300名の内実に200名が更に役立たずの鼻つまみ者である。
それこそ西方帝国全土に展開する帝国軍から集められた選りすぐりの不良兵士ばかり、正に愚連隊と呼ぶに相応しい不良兵士達が揃っているのだ。
そこに新たなる鼻つまみ者、ガイウス・アルトリウスが意気揚々とやって来た。
駐屯地の薄汚れた壁は更にあちこちが崩れており、帝都の最も壮麗な中央街区にありながら焼け焦げた跡やゴミが散乱している有様は、まるで貧民街のような佇まいである。
「ここであるか?」
与えられた書類を手に、自他共に認める帝国軍随一の鼻つまみ者アルトリウスはつぶやくと、それまで意気揚々を表わすようであった表情を顰めッ面に変えて周囲の惨憺たる有様を見回す。
そして徐に破れて開け放たれたままの営門をくぐった。
「だれでいっ?」
いきなりアルトリウスは怒声と共に短槍を真っ正面から鋭く突きつけられた。
気配を感じては居たものの殺気は無かったので見逃したのだが、この様な挙に出るとは……
アルトリウスは軽く苛立ちを覚えてその槍の主を見据えて言った。
「我はガイウス・アルトリウス北西辺境担当司令官である」
「ああ?その辺境司令官が、こんな場所に何のようでい?」
「もちろん命令によるものである」
「はあ?なんだってぇ~?命令ぃ~?」
馬鹿にしたようなまま更にずいっと槍の穂先をアルトリウスの鼻先へと近づける兵士。
アルトリウスはじろりとその兵士を睨み付けるが、へらへらと笑う兵士は小馬鹿にした態度を改めようとはしなかったが、宣言するように言い放った。
「近衛兵団から儀仗兵を除いた200名が我の指揮下に入るのだ!!」
「はあああ~~っ?」
集まって居た兵士達も含めた近衛兵団の面々から呆れ声が上がる。
「ふざけんな!」
「ふざけておらん」
その内騒ぎを嗅ぎ付けた不良兵士達が三々五々、アルトリウスの周囲へと集まり始める。
誰も彼も一言で言えばだらしがない。
酷く汚れた貫頭衣を身に着け、無精髭を生やし、髪は伸び放題のぼさぼさ、頭に蝿を纏わり付かせているヤツまでいた。
アルトリウスは蛮族も顔負けの不潔さと腐臭に思わず鼻をつまむ。
「おうおう、将官様はおれ達が臭いとよ」
「ここは将来有望な将官様の来る所じゃねえよ」
「大人しく帰りな、命令なんか知った事か」
「有り金全部置いていくってのなら別だぜ?」
「有り金置いていくのは何時でも良いんじゃねえか?」
「……違いねえ、おい将官様よ、良いモン持ってんじゃねえか。ちょいと奢ってくれや」
下卑た笑みを浮かべてわらわらと鼻をつまんでいるアルトリウスの周囲に集まる不良兵士達、既に口伝いでアルトリウスが新たな指揮官という事は知っているようだが、態度を改める様子はなく、その内の1人がなれなれしくアルトリウスの肩に手を置く。
僅かながら身じろぎしたアルトリウスに、槍を突きつけていた不良兵士がニヤニヤしながら鋭く言葉を発した。
「おおっと、そこまでにしな。でないとブッスリと行くぜ」
その言葉通り、槍をアルトリウスの鼻に付ける不良兵士。
取り囲んだ不良兵士達は数名が油断無くアルトリウスの背後から近づき、その腰に付けている革袋へと手を伸ばした。
アルトリウスは支度金として総司令部で受領した金貨を革袋に入れたまま腰に結わえ付けていたのであるが、目敏い不良兵士達はそれに目を付けたのである。
「まあ、奢ってやらんでも無いが……それには条件があるのであるぞ?」
ゆっくりと腕を組みつつ言うアルトリウスに、不良兵士達は少し意表を突かれた様子であったが、すぐに元の薄ら笑いを浮かべて応じる。
「ああ?面倒な事言ってんじゃねえよ」
「そうそう、別に奢って貰わなくともかまわねえ。頂く物さえ戴ければなあ」
一旦止めた手を再度アルトリウスの腰へと伸ばした不良兵士。
「へへっ……ごふぇっ?」
もうあと一息で金貨の詰まった袋に届く、そこまで来たその瞬間。
鈍い音と共に不良兵士は地に叩き付けられた。
「条件があると言ったであろう?」
一瞬の早業。
不良兵士達は同僚がアルトリウスの振るった拳によって地面へ叩き付けられ気を失った事に呆気に取られる。
しかしアルトリウスの身体は微塵もぶれておらず、槍の穂先は静かにその鼻に付いたまま。
「てんめええ!?」
槍をアルトリウスの鼻に付けていた兵士がはっと我に返って怒声を放ち、槍を持つ手に力を込めた。
「おっと」
アルトリウスは差し込まれる寸前で槍の穂先を回転して躱し、勢いをいなされてつんのめった不良兵士の横っ面に拳を打ち込む。
アルトリウスの拳を受けた不良兵士は、まるで壁にでも衝突したかのような勢いで半回転し、無言で槍と意識を手放した。
槍が地面に落ち、がらんがらんと派手な音を立てて転がると、それまでへらへらと薄ら笑いを浮かべていた不良兵士達の目の色が変わった。
どっと無言でアルトリウスに殺到する不良兵士達。
しかしアルトリウスは慌てる事も怯える事も無くしっかりと身構えて叫んだ。
「かかってくるが良いのである!」
「うるせええ!」
怒気も露わにアルトリウスへと殴りかかる不良兵士達は、しかし次の瞬間次々と地面に倒れ伏す事となる。
「鼻毛を抜けである!」
最初に殴りかかってきた不良兵士の右拳を躱しざまに、アルトリウスはそう叫び、素早く左拳でその鼻っ柱を打つ。
崩れ落ちる不良兵士をそのまま後にして、アルトリウスは逆襲に転じた。
「キサマ髭ぐらい剃らんか!」
「ぐは?」
「顔ぐらい洗えっ!」
「あがっ?」
「散髪せよ!」
「ぐげ!」
「太りすぎである!」
「おぶえっ!」
「水虫は治せである!」
「あひいっ?」
相手が殴りかかるより早く動き、次々と不良兵士の気になる部分を挙げながら拳を振るうアルトリウスに、不良兵士達は抵抗空しくたった一発の拳で伸されていった。
不良兵士といえども兵士は兵士。
しかも世界に名だたる西方帝国の重装歩兵、帝国軍団兵の世界一過酷で容赦の無い訓練を受けている者達である。
いかに最近サボりを重ねているとは言え弱いはずは無いのだが、アルトリウスはその屈強な兵士達を物ともせず拳を振るう。
騒ぎを聞付けて儀仗隊からも兵士が駆けつけ、更には集まってアルトリウスをからかっていた以外の兵士達も次々に宿舎から飛び出してきた。
その真ん中で40名ほどの不良兵士達を相手に退くどころか積極的に攻めに出て、土煙を上げながら大乱闘を繰り広げるアルトリウスに、誰もが呆気に取られる。
不良兵士達も最後の超えてはならない一線を弁えており、最初の門衛以外は武器を持ちだしていないし、アルトリウスも鎧兜を身に着け、完全武装であるが剣には手も触れていない。
一旦倒れながらも鼻血を出しつつアルトリウスの足にすがりついた不良兵士。
その隙を逃さずアルトリウスに3人の不良兵士が襲いかかるものの、アルトリウスは少しも慌てずまず足にすがりついた不良兵士の顔面に膝を見舞って蹴り剥がした。
高らかに鼻血噴き上げながら後へと倒れる兵士。
そして後方から殴りかかってきた兵士の肩口を左手で掴み、ぐいっと呼吸を合わせて持ち上げると面前の不良兵士へと投げ付けた。
「キサマら口が臭い!」
「おえっ?」
「ぐあっ」
驚き慌てた正面の不良兵士が頭上から振ってくる同僚を必死に受け止めたのを見て、アルトリウスは笑みを浮かべながら横合いから迫る3人目の拳を躱して肘を鳩尾に入れる。
無言で涎を半開きの口から垂らしてうずくまった3人目を尻目に、アルトリウスは正面で絡み合ってもがいている2人の顎へ容赦なく拳を打ち込んで沈黙させた。
湧き起こっていた土埃が一陣の風によって持ち去られてようやく惨状が明らかとなる。
「うわはははははははっ!」
腕を組み、仁王立ちとなったアルトリウスの高笑いが響くその周囲には、身体のあちこちを撲たれて呻き、累累と倒れ伏している不良兵士達。
唖然とその光景を見る近衛兵団の兵士達を前に、呻き声を漏らしている兵士達に向ってアルトリウスは鼻をひくつかせた。
そして顔を顰めると腕組みを解き、書類を持ったままの左手で鼻をつまんで言い放った。
「お主ら臭い!まずは風呂に行くのである!」
帝都中央街区、公衆浴場「テルマエ・パトリキス」
帝都中央街区にある公衆浴場の中でも特に貴族や高位官によく利用されるテルマエ・パトリキスは、一種独特の雰囲気を持っており、平民や下位将官は余り利用しない。
官庁街と同じ純白の大理石を使用して作られた建物や浴場。
設備には利用し易さを追求しつつも優美さを失わないよう装飾や美術品が設置されており、また湯の質も帝都で最も良い。
帝都の水道で最も清潔で美味と言われる皇帝水道から特別に分配された水を、香木を混ぜた薪で沸かし、柑橘類の皮で風味を付けて浴場へと提供しているのだ。
その薫り高く格調高い浴場に、帝国軍総司令官アントニヌス・レンドゥスは日頃のストレスと激務に疲れた身体を癒やすべく、自派閥の将官達を引き連れてやって来ていた。
「ふうむ、いつ来てもたまらんな……」
「はっ、日頃の疲れが癒やされます」
レンドゥス総司令官の声に、すかさず反応する将官の1人。
「総司令官のお陰でこの様な高級な風呂に……ありがとうございます」
「さすが総司令官、この様な場所をご存じとは」
「素晴らしい浴場ですな!」
「この素晴らしき浴場で身心を癒やし、これからも総司令官の為により一層励む所存です」
その言葉を皮切りに、次々と将官達が礼を述べ、追従の言葉を並べ立てる。
レンドゥスは早朝にアルトリウスと遣り合い、気分がくさくさしていたのだが、将官達の耳心地の良い言葉を聞き、温かい湯に浸かって身心を癒やし、ようやくここで全てが晴れた気分であった。
ふうっと深い息をつくレンドゥスにぶっきらぼうな、そして一番聞きたくない人物の声が掛かった。
「おう、近衛兵と裸の付き合いと思ってきてみれば、ケツの緩い総司令官ではないか」
「んなっ!?」
「……お主、まさか浴槽内で漏らしておらんだろうな?」
「漏らしとらんわ!それより貴様っ、何故ここにっ?近衛兵だとっ?」
薄い鳶色の手布を肩にかけ、後方に100名近い屈強な、それでいて少し荒んだ雰囲気を持つ男たちを従えたアルトリウスが腰に手を当てて浴槽内のレンドゥスを見下ろしていたのである。
男達があちこちにアザや打撲痕があるのは気になったが、アルトリウスを見て慌てて身を起こすレンドゥス。
その遣り取りを含めて呆気に取られる高位将官達を余所に、アルトリウスはそのままの格好で口を開いた。
「何故も何も無い、浴場とは身体を洗い、湯に浸かって身心を癒やす場所であろう」
「そう言う事を聞いているのじゃ無い!何故貴様如きがこの格調高い浴場にいる!?」
「ああん、格調?ここは他の浴場と同じで別に入場制限などしておらんであるぞ」
「そ、それはっ!」
確かに帝都中の浴場に入場制限は無い。
本来市民も貴族も皇帝も関係なくは入れるのが公衆浴場の醍醐味であり、存在意義であり、特徴でもあるのだ。
それを失わしめたのは貴族達であるが、それでも西方帝国文化の根幹をなす浴場に、明文化しての入場制限までは出来なかったのである。
それに本人達は気付いていないがアルトリウスとしては自身は高位将官の端くれであるし、また近衛兵団は派閥争いに負けて力を失ったとは言え、元々社会身分的には貴族に準ずる待遇で非常に高いので、この場にいても間違いでは無い。
ただ内実は平民の英雄に、不良兵士であると言うだけの事だ。
「……くっ、貴様らと一緒に風呂など入っておれん、出るぞ」
その事実を取り巻きから耳打ちされたレンドゥスは忌々しげにそう言い捨てると身体を起こすが、その両肩をガッシリと上から押さえ付けられる。
はっと見上げればそこにはアルトリウスのイイ笑顔があった。
「まあそう焦らずとも良いではないか、これぞ裸の付き合い、上下貴賤無く親交を深めようぞ……おい、貴様ら!帝国軍総司令官レンドゥス閣下が洗体を所望である」
「「おうっす!」」
アルトリウスの指令でざぶざぶと浴場に入り込み、レンドゥスを担ぎ上げる近衛兵士達。
「皮が擦り切れるくらい洗って差し上げるであるぞ!」
「ま、まて、まてっ!?……ゥアーッ!?」
呆然としている高位将官達を余所に、アルトリウスは部下に押さえ付けられているレンドゥスの背に海綿を力一杯擦りつけるのだった。