第1話 帝都召還
帝都中央街区、帝国軍総司令部
「だから何故停止命令を出したかと聞いているのである!」
他の庁舎と同じく純白の大理石で造られた帝国軍総司令部。
帝国の質実剛健を体現したかのような厳めしい造りをした建物の最奥部で、早朝から若い将官の怒声が響き渡った。
周囲にいた事務方の将兵達は、書類束や命令書を持ったまま恐る恐るその最奥部に設けられた部屋、即ち扉が開け放たれたままの帝国軍総司令官執務室を覗き見てその理由を知る。
正面にふんぞり返って座るデブ……もとい、常服姿の帝国軍総司令官アントニアヌス・レンドゥスが渋い顔で不敬にも自分の執務机に両手をついて迫る鎧兜を身に着けた若い将官に言い返した。
「命令は命令だ。従え」
「話にならん!我に任せればゴーラ族など鎧袖一触だったではないか!何故帝国の領土を広げられる機会をみすみす逃すのであるかっ?意味が分からんっ!説明しろ!」
間髪入れず怒声を返す若い将官に、レンドゥス総司令官の額の皺が深まる。
事務方の将官達は、顔にこそ表わさないものの自分達の上司であるデブ……もとい、総司令官がその若い将官にやり込められているのを見て溜飲を下げた。
彼こそは先頃南方の砦に左遷された身でありながら、攻め寄せてきた南方蛮族の3部族を撃ち破り、その族長を自らの手で討ち取った百人隊長であろう。
その大手柄に何故か激しく焦った総司令部。
直ちに軍の停止命令が出され、司令官であった彼は帝都へと召還されたのである。
しかし残念ながらそれ以上の手柄を立てさせまいとする帝国軍総司令部の意図は果たせなかった。
じつは召還命令は出された時には遅きに失しており、彼の手柄は既にそれだけに留まらなかったのである。
彼はその後討たれた3部族の支援の為に出張って来た南方で威を張る大蛮族ゴーラ族の大軍を撃破し、正に南方大陸を制しかねないほどの威勢を示していたのだ。
本来ならば西方帝国発展の好機であり喜ぶべき事のはずであるが、今や大陸西方で並ぶものの無くなった西方帝国において、その高官達が最も意を注いでいるのは派閥争い。
その派閥争いのバランスを崩しかねない彼のような存在は非常に扱いに困るのである。
そして、レンドゥス総司令官は大きなため息と共に腹を揺らしつつ口を開いた。
「……貴様如きにそう簡単に活躍されては困るんだよ」
「ああん?」
「ふん、平民の英雄だか南方の勝利者だか知らんが逆上せ上がるなアルトリウス!貴様は筆頭とは言えただの守備司令官に過ぎんのだぞ!身の程をわきまえろ!」
相変らず意味が分からないといった様子の若い将官、ガイウス・アルトリウスに対し、レンドゥスの怒声が飛ぶ。
ただ戦功を挙げれば良いというものでは無い、その思いからキツイ言葉を放つレンドゥスであるが、アルトリウスが机から離れて小指で鼻くそをほじり始めたので額に青筋を立てる。
レンドゥスからすれば派閥争いの何たるかも知らず、勝手気ままに活躍するアルトリウスは大きな頭痛の種であるのだ。
年齢はレンドゥスの方が少し……と言うか、かなり上であるが、高位将官養成訓練では同期であったアルトリウス。
当時から先輩を先輩とも思わず、生意気で手が付けられなかったがそれだけの実力を示してもいたので、平民出身や若輩といった言葉は彼に通用しなかった。
その時の嫌な出来事を思い出したのか、レンドゥスの眉間の皺が更に深くなる。
「そうは言うが帝国領を広げ威信を示すのに手柄がどうとか、そんなものは全く関係なかろう?現に我はただの左遷司令官であるが、しっかり仕事をしただけなのである。非難されるいわれは無い」
しかしそんな上司の葛藤を知ってか知らずか、アルトリウスは鼻の穴から小指をすぽんと抜くと、指先に付いた黒っぽい鼻くそをぴっと親指を使って弾きつつ言った。
緩く弧を描いて飛んだアルトリウスの鼻くそは、その言葉が終わると同時にレンドゥスの磨かれた机にペっと張り付いた。
このやろう……!
レンドゥスの青筋が強く浮き立つ。
「お前に手柄を立てられると困るんだよ!」
「別に手柄などお主に呉れてやるぞ?我は西方帝国が強くあれば良いのである」
レンドゥスが吼えるように言うが、意に介した様子もなくアルトリウスは返答し、そして新たな鼻くそを求めて小指を自分の鼻の穴へと突っ込んだ。
「……き、貴様っ!相変らず綺麗事ばかり言いやがってっ」
「とは言ってもな、今も昔もそれが我の本心である。何なら今からお主を総大将にしてもう一度南方征服事業を立ち上げようぞ。今ならまだ間に合うし、そうすれば手柄もお主のものだ、何ら問題あるまい」
今度は上手く取れなかったようで、小指と親指を上手に使って小指に粘り着いた鼻くそを丸めると、再度弾き飛ばした。
再び緩い弧を描いたアルトリウスの鼻くそは、レンドゥスが大切にしている純金製の文鎮の頂点にぴちょっと間抜けな音を立てて張り付いた。
「うぐぐぐっ」
「なあに、我に1個軍団も預けて貰えれば南方大陸をそっくり征服して皇帝陛下に献上してやるのである、もちろんお主の名前でな。ん、どうだ?」
「うるさあああい!そんな事が出来るか呆け!」
両手を広げ、満面の笑みを浮かべて言うアルトリウスにとうとうレンドゥスが切れた。
しかしアルトリウスも負けては居ない。
顔を紅潮させて言い返す。
「な何と!?呆けとは何であるかっ!それはそっくりお主に返してやるのである!何が総司令官かっ、縁故昇進の役立たずのボケナスがどの口でほざくのであるかあ!?我と実戦訓練で当たって泣き叫んでた奴が偉そうに!」
「なっ?き、き、貴様っ!?」
思い出したくない過去の話を持ち出されて今度は青くなるレンドゥスであったが、アルトリウスの攻撃は終わらない。
「連呼しておったエルザとは母ちゃんの名前であるか?それともお付きの侍女か?」
「なあっ?」
「我に木剣でケツをぶち叩かれてはエルザ、エルザ!エルザ~助けて、怖いよぅ……っと泣き叫んでおったなあ~」
「お、おま、おまあっ?」
「おう、そうそう。お主の股間から滲み出ておった液体と固体な?あれは汗や垢にしては黄色くて、茶色くて、おまけにメチャクチャ臭かったであるぞ?言い訳に無理があり過ぎるのである」
「はぐぐふうっ!」
半分以上……と言うかほとんど真実であるが、アルトリウスから高位将官養成訓練中の珍事を一方的に暴露されてしまい、目を白黒させるどころか口から泡を吹くレンドゥス。
余りの恥辱に意識が遠くなってしまったようだが、アルトリウスの攻撃は止まない。
正に一気呵成の大突撃、総司令官は風前の灯火である。
「筆頭貴族のルシーリウスの縁故だか何だか知らんであるが、いかな訓練といえクソとションベン漏らして這って逃げ惑ってた奴が総司令官であるか……世も末であるな~はあ、やれやれ。我が代わってやろうか?」
「き、き、き、きさまあはっ?」
さすがに下克上の発言については総司令官のプライドが許さなかったようで、レンドゥスは辛うじて復活すると、立ち上がりざまに無音で屁をもらしながらニヤニヤしているアルトリウスを睨み付ける。
レンドゥスは必死に取り繕おうと屁が臭わないよう少し後へ下がったが、アルトリウスは誤魔化されなかった。
「おう!相変らずケツが緩いな?何やら異様に臭うのである、あの頃を思い出すにおいであるが……貴様……怪しいなっ?」
びっとアルトリウスに尻を指さされ、咄嗟に両手で尻の穴を庇うレンドゥス。
「漏らしとらんわ!」
「嘘付け!何時もそうやって誤魔化して、付き人に固形物の張り付いた下穿きを洗わせておったのを知っておるぞ」
「ぬぐあっ」
既に事務方の将兵達はアルトリウスが軽快に暴露するレンドゥスの珍事を聞いて笑いを必死に堪えていたが、最後の遣り取りで遂に数名が堪えきれずに吹き出してしまう。
総司令官執務室の外にさざ波のように笑いを堪えつつも笑う雰囲気が広がっていく。
そしてアルトリウスがここぞとばかりのに追討ちをかけた。
「拭き残しておらんか?ちゃんと海綿を使ったのであるか?しっかりケツを洗ったか?水より湯の方が良く落ちるであるぞ」
優しく子供に諭すようなアルトリウスの言葉使い。
遂にぶち切れたレンドゥスが真っ赤に血走らせた目を見開き、絶叫する。
「おんどありゃあぎゃああああっ?左遷じゃああいっ!」
「おう、今度はどこであるか?」
やっと本題に入ったかと言わんばかりの様子で、偉そうにも腕を組んでアルトリウスが応じると、レンドゥスはギリギリと歯を噛み締めて呻くように言葉を発した。
「ぬがががが……うぐぬくそっ、次は北西辺境で島のオラン人と乳繰り合ってこいっ!」
「構わんぞ」
「ぐうううううんうううううぬぬうううぅ!」
何故か総司令官の前でふんぞり返っているアルトリウスに、レンドゥスは怒鳴りつけたい気持ちを抑えるのに必死だった。
既に手遅れの感は否めないが、部下の居る前でこれ以上珍事を暴露されてはたまらないと思ったのである。
しかしその最後の堰をアルトリウスがあっさり蹴破った。
「お主は次会うまで少しケツを鍛えておくである。漏らすと臭いからな」
「漏らしとらんわ!」
「嘘付け」
「……っ!出て行きゃえええええええい!」
「おう、また来るぞ」
レンドゥスが絶叫し、アルトリウスはにっと笑みを残すと背の赤いマントを翻して踵を返す。
そして下を向いて背中や肩を振わせている事務方の将官達に親指を立て、アルトリウスは言った。
「我慢は良くないのである」
ばんと大きな音を立て、真っ赤な顔のレンドゥスが総司令官執務室の扉を閉めた途端、嵐のような笑声が湧き起こる。
みんながみんな、目に涙を浮かべ、腹を抱えて大笑いしている様子を満足そうに眺め、アルトリウスはつぶやく。
「笑いの無い職場に未来は無いのである」
帝都中央街区、官庁街
総司令部の事務部で笑いがおさまった後、命令書を受領し、必要物資や率いる部隊について説明を受けたアルトリウスは、庁舎から出る。
まぶしいが南方大陸とは違った優しい陽光が街路を照らし、雲1つ無いからりと乾いた空気が帝都を覆っている。
帝都は何もかもが優しい。
風も雨も陽光も、そして人も街も土も、である。
雨が多く、高温多湿で水が悪く、疫病の巣窟であった南方大陸での作戦は困難を極め、兵の健康管理や装備の補修維持に大いに時間と労力を裂かれたものであったが、それなりの成果は上げられた。
ただ惜しむらくはもう一息、あと一息で西方帝国の南方大陸制覇が成ったはずであったという事。
時代の流れが自分に味方していない事は今までの経験で十分分かっていたつもりだったが、さすがに今回の事態についてはアルトリウスも大いに不満を抱いた。
自分の中に命令無視という遠隔地ならではの手段をとろうとする悪魔が現れたが、アルトリウスはこれをねじ伏せた。
それは悪しき先例を作ってはならない、その一言に尽きるからである。
「さてさて……次はアルビオニウス属州であるか」
アルトリウスは受領した命令書や作戦書を見てつぶやいた。
左遷はこれが初めてではない、既に慣れたもの。
そして今度は若干気候的には寒冷であるとは言え、同じ西方帝国内の赴任地であり、西方帝国が数十年かけて領有してきた地域ではある。
ただ、未だ感化されていない蛮族、島のオラン人と接していると言うだけだが、これが真性の蛮族で非常に扱いづらく、曲者である。
アルトリウスの任務は新たに降伏し、西方帝国の意に服した集落を守る為、砦を造営し、兵を置き、蛮族の南下と侵攻を食い止め、国境を北に押し上げる事。
服した村の数は3つ、与えられた兵は200。
「何であるか……これでは南方の砦司令官より格が落ちたであるなあ」
左遷に次ぐ左遷の扱いを受けているアルトリウスであったが、行った先々で戦功を挙げる為、たらい回し的な左遷に遭っても昇進だけはしていたのだ。
戦功を挙げて降格させては軍の基本が揺らいでしまうので、これについてはレンドゥスの力を持ってしてもどうにもならない。
南方の大陸では砦2つと港湾都市1つ、それに付随して兵を1000名預けられていたのに、今回は兵の数だけでもその5分の1になってしまっていた。
そして与えられるのは村3つと砦1つである。
「やってられんであるな~」
何時もの台詞ではあるが、今回こそは本当にそう思うアルトリウス。
未開の蕃地で周囲は敵だらけ、おまけに赴任する砦は未だ形になっていない。
「まあ自由裁量権は大きいが……ああ、一応昇進もしておるのか、これは?」
もう一度読み返した命令書には
北西辺境アルビオニウス属州、属州辺境担当司令官
にアルトリウスを任命する旨が書かれていた。
砦の守備司令官から、地域の担当司令官に任命されているので、一応は昇進である。
「ふん、下らんな」
そうは言いつつも口元がにやけるのを押さえられないアルトリウス。
今度はどんな世界が待っているのだろうか?
敵は?味方は?
「まあ……楽しみではあるな」
そうつぶやいたアルトリウスに、やってられないとつぶやいた時の憂いは奇麗さっぱり消え失せているのだった。