蛙のもり
クワ――
――クワ
クワ――
ここの蛙は人を食う。
私はその忠告を無視して、この杜に足を踏み入れた。
昼尚暗いこの杜に、私は魅せられたように吸い込まれたのだ。
そして今、恐怖に駆られて逃げ出している。
自業自得だ。
聞いていたはずだ。ここの蛙は人を食うと。人の内臓を食らうと。
それでも尚、私はこの杜の魅力に、ここの蛙の魅力に抗えなかったのだ。
いや、むしろ使命感すら感じていたはずだ。
蛙が人を食うはずがない。それを笑い飛ばしてやると。
ああ、だが情けない。私は今や逃げ出している。転んでは泥に塗れ、つまずいては擦り傷を負い、私は恥も外聞もなくこの杜を逃げ出している。
クワ――
――クワ
クワ――
蛙が鳴いている。何処までも私を追いかけるかのように、鳴いている。まるで私を食らわんとしているかのようだ。
杜は深い。暗く深い。いけどもいけども私は出口を見出せない。
ああ。思えばあれは特別な蛙だったのだ。
行方不明の友人。連絡の取れない研究仲間。不思議と視線を外せない魅力的な瞳の男。
その消息を掴まんと、私はこの杜を目指した。ここは友人が最後に訪れた場所だからだ。
だがそこで私を迎えたのは、蛙が人を食うという嫌な噂と、一匹の奇妙な蛙だった。
蛙は生っ白い肌に、印象的な斑点状の模様を持っていた。中央の黒い点から、茶色い同心円を描いたその模様。そんな蛙は見たことがなかった。
友人がこの杜を訪れた理由はそれで分かった。私も彼も両生類の専門家だからだ。
こんな蛙がいるのなら、連絡すら忘れて私も研究に没頭するだろう。
不思議と視線を外せないその蛙は、私を迎えるかのように杜の入り口の参道で待ち構えていた。
そしてその身を反転させると、その蛙は杜の奥へと跳ねていく。
奇妙な蛙だ。その外見も、まるで私を誘うかのようなその行動も。
ああ、だがどうだろう。
奇妙な蛙はその一匹だけではなかったのだ。
拳の一握り程の大きさの真っ赤で筋肉質な蛙。両手に余る程の大きさのどす黒い血が濁ったような色をした蛙。中身がないのではないかと思える程、体を膨らませたり縮めたりする桜色の蛙。
見たこともない蛙がこの杜には住み着いていた。
クワ――
――クワ
クワ――
蛙達が鳴く。
逃げる私をあざけり笑うかのように鳴く。
ここの蛙は人を食う。
そんな噂を気にせず入った杜。その奥深くで私は友人の姿を見つけた。思わず駆け寄ると、友人は大きく口を開いた。
いや――顎が落ちた。
骨が外れたかのように友人は顎を落とし、その喉仏が大きく上下した。まるで何かかがそこを登ってくるかのように。
クワ――
――クワ
クワ――
黙れ!
ああ、恐ろしい。友人の喉を登ってきたのは――蛙だったのだ。
蛙は友人の口中から顔を覗かせると、こちらに向かって鳴いた。
その時やっと気がついた。まるで何かに食われたかのように、あの友人の印象的な瞳は両目ともなくなっていたのだ。
驚く私の前で、友人は大量の蛙を吐き出した。いや、大量の蛙が友人のお腹や胸を震わせて外に出てきた。
私は思わず逃げ出した。
ここの蛙は――
あの噂は本当だったのか。友人はここの蛙に内臓を食われてしまったのか。
私も食われてしまうのか――
クワ――
――クワ
クワ――
黙れ! 黙れ! 黙れ!
明かりだ。やっと杜の出口が見えた。
走る私の視界に蛙の姿が飛び込んでくる。先に見かけた蛙がその杜の終わりで私を迎えていた。
真っ赤で筋肉質な蛙も、血が濁ったような色をした蛙も、桜色の蛙ももはや恐怖の対象でしかない。
私はその蛙達を飛び越えようとして――
激痛にこの身を襲われた。
それはまるで内臓を食われているかのような、たとえようのない痛みだ。私は堪らず膝から崩れ落ちる。
私も食われてしまうのか。
私も蛙に内臓を――
私も――
私もやはり食われてしまったようだ。私は大量の蛙を吐き出しながらそう思う。
いや、違う。
私はその蛙の姿にそのことを悟る。
その蛙が真っ赤で筋肉質なのはそれが元々心臓であったせい。血が濁ったような色をしているのはそれが元々肝臓だったせい。桜色をして収縮を繰り返すのはそれ元々胃であったせい。
私は大量の蛙と化した内臓を吐き出しながらそのことを悟る。
最後に印象的な斑点を持った生っ白い蛙と目が合った。
そう、その蛙の斑点と目が合った。
その時不意に私の右目の視界が反転した。
そして私が残った左目で最後に見たのものは、右目があったはずのところから落ちていく――
やはり印象的な斑点を持った生っ白い蛙だった。