忌むべき悦びを抱く相手
『人は必ず、他者の不幸や悲劇を目の当たりにした際に、心の中にほんのりとした愉悦や薄い安堵を抱くものだ。
もしもその時、心の中に一欠片もそれらの【忌むべき悦び】を抱かなかったら、貴方はその誰かにとって本物の家族、あるいは真心からの友と言える存在なのであろう――』
◆
ビオレッタは帝国城で働く上級文官と、皇后陛下にお仕えする上級女官との間に生まれた一人娘である。
彼女も幼い頃から帝国城で皇女殿下のお遊戯相手の一員を務めているくらいだったから、領地こそ持たないものの、それなりに裕福な家庭であった。
一応、父も母も貴族の出身ではあったが、それぞれ兄妹が多く、継ぐような土地も家も無かった。
二人とも早くから自力で身を立てる方法を探した結果、それぞれ文官と女官になったので、娘のビオレッタに対しても『できる限り私達のことはあてにせず、自分の力で生きていく努力をしなさい』と教え込んでいた。
ビオレッタは考えた。
冷酷かつ英俊な皇太子の実の妹でありながら、常に真面目で一生懸命なのにあちこち抜けていて、けれど愛さずにはいられない皇女リリーミアについて考えた。
いずれ皇太子が即位した後には、功績を挙げた臣下に嫁ぐ事が定まるだろうと噂されているが、あの病弱ではお飾りの妻になるしか無いであろう、それどころか大人になれるかどうかも怪しい、とも。
「お父様、お母様。 私、第四皇女殿下のお側仕えになりたく存じます」
娘の目に大人びた表情があったのを見て取った母親が、じっと彼女を見つめてから頷いた。
「分かったわ。 貴女の後悔の無いようになさい」
第四皇女リリーミアは、その日も熱を出して咳をしながら寝込んでいたけれど、ビオレッタがやって来ると嬉しそうにベッドの中から弱々しい笑顔を見せたのだった。
側で看病していた女神官も安心したかのように微笑む。
「聞いた、わ……ありがとう……」
そう言って起き上がろうとしたので、ビオレッタは慌てて彼女を止めた。
「第四皇女殿下、なりません。 お体に障ります」
「で、でも……」
「この前は咳をしただけで骨にヒビが入ったでしょう。 どうかご自愛くださいませ。 その代わりに本を持って参りました。 殿下がお話しされていた、200年前の動乱で活躍した姫将軍の自伝ですよ」
「……ごめんなさい」
小さな声で返事して、リリーミアは掛け布団を直されるがまま、大人しくベッドの中に戻る。
何て可愛らしくてけなげな方だろう、とビオレッタは思う。
本当は自由に体を動かしたいのに、勉強だってしたいのに、『病弱』、たったそれだけの所為で、窓から青空を見やりながらずっと耐えているのだから。
「いいえ、殿下は何もお悪くございません。 では、お読みしますね――」
ビオレッタがとうとうと本を読み上げていると、やがてリリーミアの静かな寝息が聞こえてきた。
◆
リリーミアを敬愛するのと同じかそれ以上の深さと暗さで、ビオレッタには嫌いな女がいた。
ビオレッタの父方の従姉、男爵家の姉娘のジェニエッタである。
ついこの前、ジェニエッタが病弱の振りをして他の女の婚約者を見事に寝取ったこともあり、ビオレッタの父も母も『なるべく本家とは距離を置こう』と口にはしていた。
だが、ジェニエッタの妹のグレイスがその本家で一人虐げられている可能性もあって、絶縁するまでは至らないでいたのだった。
グレイスが心配なあまり、ビオレッタがたまに彼女に会いに行くと、必ずジェニエッタが寝取った男を連れてビオレッタ達の前に姿を現すのだった。
「まあ、ビオレッタ。 私は体の具合が悪くて堪らないの。 助けてくれないかしら……」
――ビオレッタは反吐が出そうになる。
体の具合が悪い?
病弱を男にしだれかかる理由に使うな。
助けて欲しい?
こんなにも痩せてしまったグレイスが先だ。
けれどビオレッタは帝国城で覚えた業務用の笑顔でやり過ごし、理由を付けてグレイスを外に連れ出すことに見事に成功したのだった。
「ビオレッタ、ごめんね、ごめんね……」
「グレイスは何も悪くないよ。 今日は私が奢るから、しっかり食べていこう!」
最初はとにかく震えていたグレイスだったけれど、ビオレッタが神殿近くの料理店で個室を借りて――ここなら断食していた参拝客のための体に優しい料理もあるからだ――テーブル一杯の料理を頼むと、目の色を変えた。
マナーも何も無く貪るように食べていたが、やがて、ぼろぼろと歯を食いしばって泣き出した。
ビオレッタは何も言わなかったけれど、彼女にハンカチを差し出した。
「あ、あのね……」
やがて落ち着いたグレイスは話し出した。
姉の機嫌次第で食事を抜かれること。
両親も姉が『体調が悪くて何も食べられない』と言うのを真に受けて、己が食べようとすると『姉が体調が悪いのに一人だけ食べるなんて卑しい!』と怒鳴ること。
けれど両親はこっそりと外で食べていること。
酒臭かったから分かったこと。
お金も貰えず、あまりにも酷い待遇だと哀れんだ使用人から食事を分けて貰って生きていたこと。
どうしてもお腹が空いた時は、水を飲んで我慢していたこと。
学校に行きたかったけれど『体調の悪い姉』の世話で一度も行けなかったこと。
姉は奪った男にすぐ飽きてしまい、次の男を捜しているらしいが、悪評が広まって中々相手にされていないこと。
もっと病弱になれば男の興味関心を惹けるかしら、と呟いていたこと――。
――ビオレッタは血の気が引いた。
「……ごめん、グレイス。 私もそこまでだとは思っていなかった。 気付くが遅れて本当にごめんなさい!」
目を真っ赤にしていたが、グレイスは首を左右に振った。
「ううん。 ずっと食べられなかったから、私もおかしくなっていたんだと思う。 助けてって誰かに訴えれば良かったのに、そう考えることも出来なくて。
でも今日のことで決心が付いた。 このまま神殿に逃げ込むよ。 叔父さん達には悪いけれど、私はもうあの家にはいられない。 少なくともあの人達がいる限りは戻れない。 戻ったら今度こそ私は殺されちゃう。 叔父さん達には悪いけれど、良いよね……?」
「私がどうしてあの本家に顔を出していたかって、ただグレイスが心配だったからだよ。 でなきゃ父様も母様もとうの昔に縁を切っていたわ。
良い、グレイス? 私達のことは気にしないで。 でも、絶対に幸せになってね、グレイス」
グレイスとビオレッタは手を握り合った。
「ありがとう、ビオレッタ……ありがとう!」
後で本家からは散々に苦情や文句を言われたが、ビオレッタの両親は一度も彼女を責めなかった。
――それから一年後。
グレイスが『女神の巫女』の力に覚醒したという一報が、帝国を駆け巡った。
◆
『女神の巫女』とは、女神の一柱に選ばれた特別な女神官のことを指す。
己を選んだ女神の声を聞き、また、その女神に自らの祈りと声を届けることが出来る唯一の力を持つのだ。
彼女が帝国に存在するだけで、帝国は栄えるとされている。
「ビオレッタ、ありがとう、ありがとう。 貴女のおかげで私は今、本当に幸せよ」
グレイスはビオレッタの手を握りしめて何度も礼を言った。
「ここならちゃんと食べられて、寝られて、理不尽に怒られない。 やるべきことをやると泣いて感謝される。 誰もが私の尊厳を命を賭けて大事にしてくれるから、私も彼らを何よりも大事にしたいの」
ビオレッタは涙ぐんだ。
あのグレイスが本当に幸せそうで、明るくなって。
かつては暗く淀んでいた目が、優しく輝いている。
取り憑いていた不幸の神が逃げた代わりに、『女神の巫女』になった。
「実はね、貴女のことを女神様にお話ししたら、『よくぞ私の巫女を苦難から救った』と大層喜ばれて――」
グレイスは微笑んだまま、ビオレッタに囁いた。
◆
男爵家ではジェニエッタが荒れていた。
『お前さ、本当は病弱なんかじゃ無いだろう? 俺もまんまと騙されて本当に馬鹿なことをしたよ!』
と、奪った男からまた棄てられたのである。
カーテンを引き裂き、鏡を割り、棚を突き倒し、花瓶を窓に投げつけたところで、青い顔をしたメイドが、ビオレッタが来たことを知らせたのだった。
「何様のつもりでここに来たの!? 私を嘲りに来たの!?」
ヒステリックに怒鳴り散らすジェニエッタに、ビオレッタは冷静に言った。
「いいえ。 貴女に一つだけ確かめに来たの。 そんなに貴女、病弱になりたい?」
「なりたいに決まっているでしょうが! か弱くて可哀想な振りをすれば男なんてすぐに落とせるもの!」
「そう。 もし本当に病弱になりたければ、女神様に祈ることを勧めるわ」
それだけ告げてビオレッタは去って行ったが、その後ろ姿にジェニエッタは侮辱と呪いの言葉をありったけ吐いた。
――しかし。
冷静になった彼女は思った。
このままでは己は不幸せなままだ。
あの頭の弱い妹は『女神の巫女』なんかに選ばれて神殿でちやほやされているのに!
この不平等、絶対に許してなるものか!
ジェニエッタは割れた窓から青空を見上げて祈った。
「どうか私を病弱にしてよ! ――ねえ女神様、聞いているんでしょ!?」
◆
ビオレッタは泣くまいと必死に堪えていたが、リリーミアの生母である皇后は早くも泣き崩れていた。
「お母様! もう私、こんなに踊れるようになりました!」
――あんなにも病弱だったリリーミアがめざましい回復を見せて、今では舞踊の練習に励んでいるのだ。
今まで寝ているしか出来ず、ずっと遅れていた分を取り戻すかのように、朝から夜遅くまで勉学やお稽古に励み。
「1、2、3、ターン。 軸足の動きが乱れましたよ! はい、そうです、そうです……」
厳しく指導している教師も、何処か楽しげ。
見守る女官や女騎士達も微笑ましいような顔をしている。
かつて薬の臭いと病の気配だけがあった場所が、今は命の活気が溢れていた。
「ねえ、お母様。 私、旅行にも行ってみたいですわ! ビオレッタが読んでくれた本には、朝晩に赤く染まる大きな山や何処までも広がる草原や、由緒ある白亜の建物が並ぶ港街が出てくるのです」
舞踊の練習が終わった後。
汗を拭かせながらリリーミアは皇后に甘える。
皇后は彼女を抱きしめながら、微笑んだ。
「ええ。 ええ。 貴女が嫁ぐ前に色々な場所へ行きましょう!」
――ああ、良かった。
ビオレッタもリリーミアの世話を甲斐甲斐しく行いながら、安心していた。
リリーミアに対して、ビオレッタは一切の【忌むべき悦び】を抱いていない。
今も、恐らくはこれからも、抱くことは無いだろう。
『あのね、ビオレッタ。 私の女神様はね、【復讐】の女神様なのよ。 とは言え、過剰で過激な報復は許してくださらないわ。 ただ、健康になりたい人と病弱になりたい人が、もしも本気でそう願ったのなら。 その健康と病弱を入れ替えることくらいは許してくださるって――』
本家である男爵家では、ジェニエッタがベッドから起きられなくなったらしい。
あまりにも酷い有様らしいので、長生きも出来ぬのではないかと父が話していたことを一瞬だけビオレッタは思い出す。
しかし、そのほんのりと暗影のある思考は、これから開かれるリリーミアと皇后のための茶会の準備に追われて、刹那の内に遠くへと消え去っていったのだった。
『人は必ず、他者の不幸や悲劇を目の当たりにした際に、心の中にほんのりとした愉悦や薄い安堵を抱くものだ。
もしもその時、心の中に一欠片もそれらの【忌むべき悦び】を抱かなかったら、貴方はその誰かにとって本物の家族、あるいは真心からの友と言える存在なのであろう。
自伝の末文に寄せて』




