第二十六話:英雄の告白と甘い約束
ルーメンシュタット皇国から帰国し、ようやく辿り着いたヴァルデンライヒ王都。
王弟邸の静かな寝室で、二人はようやく深い安堵の中にいた。
広々としたベッドの上、エレナの定位置はいつだってジャックの広い胸の中だ。
心地よい体温と、懐かしい石鹸の香りに包まれ、エレナは小さく息を吐いた。
「……慌ただしかったですね。正直、少し疲れました」
「ああ。今回ばかりは流石にな……」
ジャックが応じ、エレナを抱きしめる腕にギュッと力がこもる。
彼はまるで、自分の所有物であることを確かめるように、エレナのつむじや額、頬や耳へと、せわしなく羽毛のような口づけを落としていく。
(……なんだか、精神安定剤みたいな扱いになってる)
エレナは胸の内でこっそり苦笑しながらも、その過保護な愛を甘んじて受け入れていた。
「しかし、あの男……最後まで鬱陶しい奴だった」
ふと思い出したように、ジャックが苦々しく毒突いた。
宴の席でエレナの指先に唇を落とした、あの傲岸不遜な皇帝の顔が脳裏をよぎったのだろう。
ギリィ、と奥歯を噛み締める音が聞こえてきそうなほどの不機嫌さに、エレナは思わずクスりと笑ってしまう。
「ですが……ジャック様は、もっとお怒りになると思っていました」
エレナはジャックの胸に顔を埋めたまま、素直な疑問を口にした。
独占欲の塊のようなジャックが、死闘を演じたライバルと国交を結び、あまつさえエレナとの「家族」としての親交を(渋々ながらも)承諾した。
それは、彼にしては驚くほど寛容な対応に思えたのだ。
ジャックは一瞬、視線を彷徨わせた。何かを躊躇うように。
けれどエレナを抱く腕にさらなる熱を込めて、静かに語り出す。
「……わかるからな」
「えっ?」
意外な言葉に、エレナは弾かれたように顔を上げた。
「ひとつ間違えば、俺もあいつのようになっていた」
静かに耳を傾けるエレナに、ジャックは独白を続ける。
「強すぎる力を持つ者は、周囲に恐れられ、疎まれる。幸い、俺には理解ある兄上やレオンハルト、信頼できる部下たちがいた。……だが、あいつには誰もいなかった。そう思うと……あいつを、ただ憎みきることはできなかった」
寂しげに目を細めて語るジャックの姿に、エレナはかつての「ビル」と、今の「ジャック」が重なって見えた。
(……この人も、幼い頃に同じような孤独を抱えていたのかな)
エレナの胸に、かつてないほどの愛おしさが込み上げてくる。
「ジャック様」
「うん? どうした、そんなに改まった顔をして」
エレナは真っ直ぐにジャックを見つめ、これ以上ないほど真剣な表情で告げた。
「私がビルにしてあげたこと、全部ジャック様にもしたいです」
「……?」
ジャックは不思議そうに首をかしげる。
この寂しがりやな恋人に、どうか愛が伝わりますように――。
そう願いを込めて、エレナは歌を贈るように、言葉を重ねていく。
「夜は優しく寝かしつけてあげます。――子守歌も添えましょう」
「お休みの日はピクニックに連れて行きます。――手を『ぎゅっ』てつなぎながら」
「毎日『私の宝物だよ』って抱きしめて。――苦しくなるくらいに」
「貴方は世界に愛されているんだって、私が教えてあげます。――毎日目をあわせて『大好きよ』って伝えます」
心に響くよう、祈るように紡がれる愛の輪唱。
ジャックは、完全に虚を突かれたような顔をして固まっていた。
(わあ、珍しい。ジャック様のこんなに驚いた顔……なんだか、可愛い)
数秒の沈黙の後。ジャックの端正な顔が、くしゃりと崩れるように綻んだ。
それは王弟でも英雄でもない、ただ一人の男としての、晴れやかな笑みだった。
「――そうか。それは、楽しみだな」
溢れ出す愛しさを抑えきれないといった様子で、ジャックは空いた手でエレナの顎をそっと上向かせた。
強引に、けれど指先は優しく。
エレナの視線を絡め取ると、戸惑う暇も与えず、その唇をそっと塞ぐ。
唇を離すと、名残惜しそうに彼女の唇の端を親指でなぞった。
蕩けるような熱を帯びた瞳で彼女を見つめ、囁くように愛を告げる。
「……愛している、エレナ」
エレナは頬を染め、幸せそうに微笑み返した。
「はい。私も、愛しています……」
エレナは頬を緩めると、甘い空気を優しく解きほぐすように「ふふっ」と喉を鳴らした。
「うん。まずは……ここにはない、遠い国の物語を聴かせてあげます」
子守歌を歌うような穏やかな声。
ジャックはそっとエレナの胸元に顔を寄せ、彼女の鼓動を聴きながら瞳を閉じた。
その安らかな顔は、まるで母の物語に耳を傾ける、幼い少年のようだった。
*
「……そうして、その勇敢な子狐は、やっとお母さんの元へ帰ることができたのでした」
エレナが静かに語り終えると、隣からは規則正しい寝息が聞こえてきた。
見れば、いつもはエレナが寝つくまで執拗に甘えてくるジャックが、安心しきった顔で深い眠りに落ちている。
「……ふふ。珍しい。ジャック様が先に眠ってしまうなんて」
エレナはいたずらが成功した子どものように、嬉しそうに声を弾ませた。
無防備な寝顔を晒す彼を愛おしく思いながら、その柔らかな銀髪をそっと指先で梳く。
(こうして、少しずつ……本当の『家族』になっていくのかな)
前世で失った温かな日常。
今世で手に入れた、少し強引で、けれど誰よりも自分を必要としてくれる最愛の人。
彼と積み重ねていく一分一秒を、何よりも大切にしていきたい。エレナは胸の奥で、静かにそう誓った。
「おやすみなさい、あなた……」
ふと思いついて、口にしたのは少し先の未来で呼ぶはずの言葉。
「旦那様」でも「ジャック様」でもない、前世の記憶に残る、親密で特別な響き。
「……ふふっ。やっぱり、少し照れちゃうな」
独り言に頬を染めながら、エレナはジャックの額に、軽いキスを落とした。
そして、大きな背中に腕を回して優しく抱きしめると、彼に寄り添うようにゆっくりと瞳を閉じる。
窓の外では、静かな月光が二人を祝福するように降り注いでいた。
嵐のような日々を越え、訪れたあまりに穏やかな夜だった。




