第二十一話:魔道皇帝の願い
時は、少しだけ遡る。
視界が眩い白光に包まれたかと思うと、次の瞬間、エレナの足裏はひんやりとした大理石の感触を捉えていた。
「っ……、ここは……?」
思わず息を呑み、エレナは辺りを見回した。
目に飛び込んできたのは、あの重厚な黒い宮殿の外観からは想像もつかないほど、純白に輝く空間だった。
天高く伸びる円柱、鏡のように磨き上げられた床、そして高い天井から降り注ぐ柔らかな光。
そこはまるで神殿のような、静かで神聖な空気が満ちる謁見の間だった。
「……空間をねじ曲げてある」
静寂を破り、背後から低く落ち着いた声が響く。
振り返ると、すぐそこにヴィルヘルムが立っていた。
夜を溶かしたような長い黒髪が肩を流れ、琥珀のように透き通った金色の瞳が、真っ直ぐにエレナを見つめている。
「普通の方法では、決して辿り着けない場所だ」
どこか誇らしげに、そして何よりも嬉しそうに、彼は唇を綻ばせた。
その眼差しは、宝物を見つけた子どものように純粋だった。
「エレナ」
彼が一歩、距離を詰める。
「やっと、会えた……」
吐息と共に漏れたその声には、狂おしいほどの安堵が滲んでいた。
「……本当に、ビルなの?」
震える声で、エレナは問いかけた。
目の前にいるのは、圧倒的な威厳を放つ美丈夫な男だ。けれど、その瞳は紛れもなくビルのものだった。
「その姿は……一体どういうことなの?」
不安を隠しきれないエレナの問いに、ヴィルヘルムの表情がわずかに陰る。
「……隠していて、すまない」
低く落ちた声には、拭いきれない痛みが混じっていた。彼はわずかに視線を落とし、独白するように静かに語り始める。
「信頼していた婚約者に、魔力を奪う毒を盛られたんだ」
淡々とした、あまりに静かな口調。
けれど、その言葉の裏にある凄惨な裏切りに、エレナの呼吸が止まる。
「身体が弱ったところを、弟に襲われた。……何度も刺され、殺されそうになった」
エレナの瞳が驚愕で見開かれる。
「死の淵で、残っていた全ての魔力を使い果たして転移した。……次に気付いた時には、あの子どもの姿になって、君の領地に落ちていた」
あまりにも壮絶で、救いのない過去。
目の前の男が背負ってきた闇の深さに、エレナは言葉を失い、ただ呆然と彼を見つめることしかできなかった。
すると、その痛々しいほどの沈黙を癒やすように、ヴィルヘルムが小さく、慈しむように笑った。
「そんな顔、しないで……」
すう、と彼の手が伸びる。
白く長い指先がエレナの頬に触れた。驚くほど優しく、温かさを宿した手だった。
「エレナ」
囁くような、甘い呼声。
「すき……」
唐突に告げられた真っ直ぐな言葉に、エレナの心臓が跳ねる。
「優しいエレナが好き。心配してくれる声も、俺を見てくれるその瞳も、全部好き」
金色の瞳が、とろけるような熱を帯びて細められる。
「ずっと、エレナと一緒にいたい」
まるで遠い夢を語る幼子のように、ヴィルヘルムは穏やかに微笑んだ。
「エレナは……どんな俺であっても、『俺』だと言ってくれた」
彼が見ているのは、あの幸福だった日々の記憶なのだろう。
魔力を失い、地位も名も失い、ただの「ビル」として過ごした時間。
何者でもなかった自分を、ただ一人の人間として受け入れてくれたエレナ。
その記憶だけが、今の彼の凍てついた心を動かす唯一の熱源だった。
「……皇位を取り戻したんだ」
ヴィルヘルムは、祈りを捧げるように告げた。
「今の俺なら」
ゆっくりと、さらに一歩。
「エレナの『特別』になる資格が、ようやくできたはず」
金色の瞳が、吸い込まれるような熱量でエレナを捉える。
「特別に……なれるよね、エレナ」
大陸を震撼させる冷徹な皇帝の姿に、かつての孤独な少年が重なって消えない。
金色の瞳に宿っていたのは、ただひたすらに「愛されたい」とすがる、必死な願いだった。
エレナの胸に、鋭い痛みが走る。
彼がどれほどの地獄を潜り抜け、この瞬間のために這い上がってきたのか。その想いの重さが、強く伝わってくる。
けれど――。
彼女は、溢れそうになる涙を堪え、ゆっくりと首を振った。
「……ちがうわ」
震える声。それでも、はっきりと拒絶の色を混ぜて。
「それは、ちがうの……ビル」
その瞬間、ヴィルヘルムの表情が凍りついた。
「貴方のことは、大切よ。本当に、大切だと思っているわ」
エレナの瞳に、涙が滲む。
「家族みたいに思っている。……でも」
ぐっと深く息を吸い、心臓を叩くような想いで言葉を紡ぐ。
「こんなことをしては駄目よ。お願い……私を、元の場所に帰して」
傷つけたくない。壊したくない。
けれど、ここで曖昧な優しさを見せることこそが、彼にとって一番の毒になる。
(……ビルの心は、まだ未成熟なんだわ)
エレナは悲痛な思いで彼を見つめた。
裏切りに満ちた孤独な人生の中で、初めて触れた「無償の愛」。
それを独り占めしたがる彼の心は、あの幸福だったローゼンバーグ領のあの日々で止まったままなのだ。
ヴィルヘルムの端正な顔が、耐えがたい苦痛に、今にも泣き出しそうな子供のように歪んだ。
「……なぜだ」掠れた声が、静かな広間に漏れる。
「権力も手に入れた。財力も、望むものは何でも……。最強の魔力だって、この手にある」
金色の瞳がみるみるうちに潤んでいく。
「……あの男と、何が違うというんだ……っ!」
震える手が伸び、エレナの身体をそっと抱き寄せた。
まるで壊れ物を扱うような、けれど離せば消えてしまうと怯えるような、弱々しい力。
「……嫌だ」
ヴィルヘルムの声が、耐えきれずに崩れた。
「俺を絶望の淵から救い上げた光なんだ」
腕に力がこもる。
「エレナ、行かないで」
その瞬間、彼の美しい瞳から一筋の涙がこぼれ落ち、エレナの肩を濡らした。
「国もあげる」
「権力も、財宝も……」
「俺の命だって全部あげるから……!」
縋り付くような、血を吐くような叫び。
「全部あげる。だから……」
彼は、消え入るような声で囁いた。
「エレナ……、行かないで……」
エレナの頬を涙が伝う。
胸が張り裂けそうなほど辛い。今すぐその背中に手を回し、よしよしと甘やかしてあげたい衝動に駆られる。
けれど。
彼女は――決して抱きしめ返さなかった。
ぎゅっと拳を握り、震える身体を必死に抑えて、彼の温もりを拒絶する。
それが今の彼にとって、死よりも残酷な仕打ちだと分かっていても、これ以上の歪な執着を許すわけにはいかなかった。
ヴィルヘルムの押し殺したような嗚咽が、広大な広間に虚しく響き渡る。
――その時だった。
ドォォォォォンッ!
空間そのものが悲鳴を上げるような、圧倒的な衝撃。
真っ白な謁見の間の重厚な扉が、爆圧に耐えかねたように吹き飛んだ。
そして。
砂塵を切り裂き、低く、鋭い声が響き渡る。
「――エレナを、迎えに来た」
そこに立っていたのは、もう一人の英雄。
最愛を奪い返すためなら、世界の理さえ力ずくで踏み越えてくる男――ジャックだった。




