第十九話:王太子の激情
その瞬間、空気が鳴動した。
――ゴオオォォッ!!
凄まじい魔力の奔流が中庭を呑み込む。
レオンハルトから溢れ出した怒りの暴風が吹き荒れ、庭木の枝を千切らんばかりに揺らし、石畳の砂塵を巻き上げた。
「くっ……!?」
ガルドは咄嗟に石畳に爪を立て、吹き飛ばされまいと全身で耐える。
嵐の中心に立つレオンハルトの瞳は、夜闇の中で鋭く、燃え上がるように彼を射抜いていた。
「……ふざけるなッ!!」
怒声が夜の静寂を切り裂く。
「あの子を『くれ』だと? ふざけるのもいい加減にしろ!」
レオンハルトの声は、激しい怒りと――そして、別の震える感情で波打っていた。
「彼女は物じゃない! 貴様たちの所有物などではないんだ!」
一歩、レオンハルトが踏み出す。
荒れ狂う風に金髪をなびかせ、月光の下でその美貌を怒りに歪ませた。
「こんな真似をして、彼女が喜ぶと本気で思っているのか!?」
その言葉は、鋭い刃となってガルドの胸に突き刺さる。
レオンハルトの胸の奥から、ずっと押し込めていた感情が堰を切ったように溢れ出した。
「……エレナは」
無意識にその名を呼び、レオンハルト自身がハッとしたように息を詰める。
けれど、もう言葉は止まらなかった。
「優しくて、お節介なほど世話焼きで」
慈しむように、遠くを見る目で言葉を紡ぐ。
「心配性で、そのくせ変なところで肝が据わっていて……」
レオンハルトの口元が、自嘲気味に、けれど愛おしげにわずかへと綻んだ。
「賢いくせに、たまに抜けていて……。」
泣き笑いのような、切ない表情になる。
「――叔父上といる時は、とても幸せそうに笑うんだ」
思い出すのは、自分ではなく「叔父」に向けられる、あの暖かな向日葵のような笑顔。
レオンハルトは、真っ直ぐにガルドを見据えた。
「こんな強引な真似をしても、お前の主は幸せになどなれない」
一拍。
夜の空気が止まったかのような静寂が落ちる。
「……絶対にだ」
吹き荒れていた風が凪いでいく。
レオンハルトの真摯な眼差しに、ガルドの胸は激しく揺さぶられた。
「……っ」
ガルドの顔が、絶望に歪む。
拳を地面に叩きつけ、大きな身体を丸めるようにして俯いた。
その拳は、後悔で震えている。
「あ……ああ……」
喉が詰まり、上手く息が吸えない。
やがて、堪えきれない嗚咽が漏れ出した。
最強と謳われた将軍が、その場に蹲り、声を押し殺して子供のように泣き崩れた。
*
「……そうか」
ガルドの掠れた声が、ぽつりと夜の静寂に落ちた。
どこか寂しげで、遠い空を仰ぐような響き。
「陛下は……幸せになれないのか」
誰に問うでもない。ただ、突きつけられた現実をゆっくりと飲み込む。
ガルドは濡れた目を細め、視線を横へ向けた。
そこには、いつの間にか中庭へ降りていたエーレンが立っていた。
いつも冷静な宰相の顔が、今にも泣き出しそうに歪んでいる。
ガルドは、自嘲気味に口角を上げた。
「……だとよ、エーレン。聞いたか?」
血の滲んだ口元を歪ませ、ひらりと手を振ってみせる。
「回復薬、持ってるだろ。二本よこせ」
エーレンは静かに頷く。
「……分かりました」
低い、けれど迷いのない声。
懐から取り出した小瓶が、月光を受けて淡く光る。
それを受け取ると、ガルドは一本を自身の喉へ流し込み、残る一本を対峙していた男へ――レオンハルトへ放り投げた。
「……ほらよ。……飲めよ、王太子殿」
放られた小瓶は、力ない放物線を描く。
レオンハルトはそれを、無言のまま片手で受け止めた。
ガルドは深く、長く息を吐き出した。
胸の奥に溜まった何かを吐き出すように。
そして――ガルドはゆっくりと立ち上がった。
レオンハルトへ向き直るその顔は、もう迷いのない「覚悟を決めた男」の顔だ。
エーレンもまた、並び立つようにレオンハルトを見据える。
長い年月、同じ孤独な主に仕え続けてきた二人。その背には、後悔と罪が重く乗っていた。
「数々のご無礼、お許しください。レオンハルト王太子殿下」
エーレンが深く頭を下げる。
続いて、ガルドも真っ直ぐに告げた。
「――エレナ様のいらっしゃる場所へ、案内しましょう」
その言葉に、レオンハルトの瞳がわずかに揺れる。
「陛下を、お諫めしなければな。……それが、俺たちの務めだ」
二人の声が重なる。
宰相エーレンと将軍ガルド。その瞳に、もう一片の曇りもなかった。
「……感謝します、お二人とも」
レオンハルトが短く応える。
その横顔にも、王族としての冷徹な覚悟が宿っていた。
「では、参りましょう。――手遅れになる前に」
エーレンが身を翻し、宮殿の奥へと続く隠し通路を指し示す。
月明かりの下、三人の影が一つに重なり、夜の闇へと溶け込んでいく。
その先で待つのは、狂気か、それとも救済か。
エレナを巡る運命の歯車が、いよいよ最終局面へと加速し始めた。




