第十七話:贖罪の彼方
「ヴィルヘルムーーーーーーーッ!!」
ジャックの咆哮が、石造りの部屋を激しく震わせた。
抑えきれないマナが奔流となって溢れ出し、大理石の床には亀裂が走る。
常人ならばその圧だけで気絶しかねない、文字通りの激情。
……だが、次の瞬間だった。
ふっ、と。
ジャックの表情から、一切の感情が消え失せた。
燃え上がっていた怒りは一瞬で凪ぎ、代わりに浮かんだのは冷徹な「英雄」の顔。
ジャックはゆっくりと、レオンハルトへ視線を向けた。
「レオンハルト」
「はい、叔父上」
レオンハルトは即座に応じる。その瞳に迷いはない。
「ブローチの魔力を追う。――任せる」
「承知しました」
短く言葉を交わすと、ジャックが動いた。
爆音とともに床を蹴り、その姿は一瞬で視界から掻き消える。
――だが。
「……させるかよっ!」
鋭い声が響き、凶悪な剣閃が閃いた。
ガルドが魔力を纏わせた大剣を振り下ろし、ジャックの進路を断ち切るように石畳を叩き割る。
――轟音。
砕けた床から土煙が激しく巻き上がり、視界を白く染めた。
石の破片が壁に当たり、乾いた音を立てて転がる。
やがて煙が晴れたとき、ガルドは忌々しげに舌打ちを漏らした。
「……チッ。さすがは『英雄』様だな。もういねえのかよ」
肩に剣を担ぎ直し、吐き捨てるように呟く。
「――ッ!」
その時、ガルドの野生の勘が警鐘を鳴らした。
反射的に剣を振るうと、空気を切り裂いて迫っていた魔力の刃が、火花を散らして弾け飛ぶ。
「……君の相手は、僕だよ」
静かな、冷たさを孕んだ声。
そこには、指先に淡い魔力を揺らめかせたレオンハルトが立っていた。
その唇には、冷ややかな笑みが浮かんでいる。
「叔父上の邪魔をさせるわけにはいかないんだ。……全力で行かせてもらうよ」
ガルドは一瞬の沈黙の後、低く、愉しげに喉を鳴らした。
口元が歪み、獲物を前にした獣のような笑みを浮かべる。
剥き出しの闘争心を隠そうともせず、肩に担いだ大剣を握り直した。
「望み通りの『手合わせ』だ。――楽しもうぜ、王太子殿!」
言い放つなり、ガルドは弾かれたように踵を返した。
迷いのない足取りで窓へと駆け、そのまま二階の高さから夜の闇へと身を投じる。
「中庭で待ってるぞッ!」
レオンハルトは何も言わず、ただ静かに地を蹴った。
流れる様な動きで窓枠を跳ね、軽やかに空中へと躍り出る。
二人の影が月光に溶け、ほぼ同時に中庭へと着地した。
――ストン、と石畳がわずかに鳴る。
そこは、手入れの行き届いた静かな庭園だった。
整えられた樹木の間を、夜風が緩やかに吹き抜けていく。
レオンハルトはゆっくりと歩み寄り、わずかに眉をひそめた。
「……何故、このような真似を?」
静かだが、はっきりとした声。
「あなたほどの忠臣であれば、主を止めるべきではないのか」
一歩、レオンハルトが距離を詰める。
その問いかけに、ガルドは肩を揺らして「くつくつ」と不気味に笑った。
不敵な笑み。その瞳の奥には、常軌を逸した奇妙な光が宿っていた。
主のためならば、世界を敵に回すことすら厭わない――それは、忠誠を超えた「狂気」に近い確信だった。
(……厄介だな)
レオンハルトは内心で毒づく。
目の前の男は、正気で仕掛けてきている。主の望みを叶えるためなら、破滅すら歓迎するという覚悟だ。
月光に照らされた夜の庭園。
気高き王太子と、飢えた狂犬が静かに向かい合う。
そして――。
一瞬の静寂を切り裂き、空気が爆ぜる。
*
(エーレン視点)
窓辺に立つエーレンは、中庭を見下ろしていた。
視線の先には、対峙する二人の男。――ガルドと、王太子レオンハルト。
エーレンは静かに、自嘲気味な吐息を漏らした。
(……あの方は、生まれたその瞬間から、あまりに巨大な魔力を纏っておられた)
人が持つには強すぎる力。それゆえに先代皇帝に疎まれ、宮殿の奥深く、幽閉同然に育てられたという。
与えられる温もりも、優しい言葉もほとんどない孤独な日々。
幼い頃の陛下を知る者の話は、どれも胸が締め付けられるようなものばかりだった。
エーレンが初めて陛下にお目にかかった日のことを、今でも鮮明に覚えている。
新任官吏として登城したあの日。
玉座に座していたのは、先代の急逝により即位したばかりの、若き皇帝だった。
その瞳を見た瞬間、エーレンは言葉を失った。
冷酷というのとは違う。怒りも、悲しみすらもない。
まるで感情を失っているかのような、透明な心。
本当に血の通った人間なのかと、一瞬だけ疑ってしまったほどだ。
だが――それでも、あの方は国を見捨てなかった。
誰に甘えることも、助けを求めることもせず。
ただひたすら民のために、己の身を削るようにして帝国を守り続けてこられた。
その背中を追い続けるうちに、気づいた時にはもう、命を賭してでも支えたいと思ってしまった。
そんな、今まで何も求めなかった主が、たった一度だけ、強く願ったもの。
――あの、エレナという少女。
エーレンは静かに目を閉じる。
たとえ世界中に非難されようと、どれほど愚かだと嘲られようと構わない。
あの方が初めて抱いた願いを、何としてでも叶えて差し上げたい。
かつて、苦しむあの方を救えなかった。その罪は、あまりに重い。
あの日――ヴィルヘルム陛下が謀反に遭った夜のことを、忘れた日は一日たりともない。
エーレンはルードヴィヒの卑劣な罠に嵌まり、宮殿の外へ誘い出されていた。不審を覚えて駆け戻った時には……すべてが、手遅れだった。
血の気が引く思いで辿り着いた現場に、主の姿はなかった。
残されていたのは争いの痕跡と、転移魔法が使われた後の、残酷なまでの静寂だけ。
(お守りすると誓ったのに。あの時、私は側にいることすらできなかった……)
握りしめた拳に、爪が食い込む。
だが、その痛みすら、あの日から消えない悔恨には遠く及ばない。
あの方を、たった独りで戦わせてしまった。その事実が、今もエーレンの心を抉り続けている。
(ならば、せめて……この願いだけは)
どうか、我らに贖罪の機会を。
あの日果たせなかった忠義を、今度こそ。
エーレンは静かに顔を上げ、夜空を見上げた。
雲の隙間に浮かぶ弓月が、今にも消えてしまいそうなほど淡く、儚い光を放っていた。




