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第十二話:魔道皇帝の帰還

ルーメンシュタット宰相エーレンは、静かな顔の裏で、はらわたが煮えくり返る思いを抱えていた。


濃いオリーブ色の髪をきちりと撫でつけ、今日もまた政務室で書類に目を通す。

表情は穏やか、声音は冷静。第二皇子ルードヴィヒの前では、あくまで従順な宰相として振る舞う。


巧妙に仕組まれたルードヴィヒ第二皇子の皇位簒奪。

毒、偽証、密命、封鎖――すべてが周到だった。


気づいた時には、すでに遅かった。


ヴィルヘルム陛下は宮殿を脱し、行方知れず。 そして魔道将軍ガルドは、第二皇子付の近衛騎士たちに拘束され、地下牢へと落とされた。


自分は宰相でありながら、守れなかった。


その事実が、何よりも耐え難い。


(小賢しい……)


あの第二皇子に、この魔道皇国を統べる器などあるはずがない。

政務の重みも、魔力の責任も、王座の孤独も、何ひとつ知らぬまま。


そして背後で囁く、あの女。


甘い笑みの裏で毒を差し出し、皇位を煽った女狐。

魔力を奪う猛毒を盛り、さらに何度も刃を向けさせたと聞く。


卑劣。下劣。浅ましい。


拳を握る。

だが怒りは、表に出さない。


――あの方が、敗れるはずがない。


大陸最強の魔力を持つ魔道皇帝。

ヴィルヘルム・フォン・ナハトライヒ。


その名は、誇張でも伝説でもない。

紛れもない事実だ。


(必ずお戻りになる)


その時には、すべて整えておく。


裏切り者は洗い出し、忠臣は密かに集め、兵の動きも資金の流れも掌握する。

今は牙を隠し、爪を研ぐ時だ。


表では従順に。


第二皇子の隣に立ち、淡々と政務をこなす。

的確な助言を与え、外面を整え、皇国が揺らがぬよう支える。


だがその裏で、エーレンは着々と動いていた。


忠誠はただ一人に。



夜。


宮殿の地下へ続く石段を、エーレンは静かに下る。

湿った空気と鉄の匂い。


牢番はすでに彼の手の者だ。

目礼だけで、重い扉が開かれる。


薄暗い牢の奥に、一人の青年がいた。


赤黒い髪を無造作にかき上げ、黄土色の目でこちらを見る。


「……ガルド」


名を呼ぶと、青年は欠伸混じりにわずかに目を細めた。


「あんだよ。まだ陛下は見つからねーの?」


気怠げな声音。


エーレンは溜息をついた。


「そろそろ出てこい。魔道将軍の名が泣くぞ」


鎖など、本気を出せばいつでも引きちぎれる。

この男が出ないのは、意地と誇りの問題だ。


ガルドは鼻で笑った。


「嫌だね。陛下が見つかるまで、俺はここから出ねぇよ」


鉄格子に手をかけ、低く続ける。


「誰があの無能皇子に仕えるかよ」


その言葉に偽りはない。


皇帝にのみ忠誠を誓う将軍。

王座ではなく、“あの人”に。


エーレンはしばし沈黙し、そして静かに告げた。


「もうすぐヴァルデンライヒ王国との調印式がある」


ガルドの目が鋭く光る。


「そこでルードヴィヒ皇子が、正式に皇位を宣言する予定だ」


皇位の既成事実化をし、外圧を利用した承認をとる。


それが成れば、取り戻すのは困難になる。


地下牢の空気が、重く沈む。


エーレンの声が、わずかに低くなった。


「何としても阻止しなければならない……」


それは宰相の判断ではない。


一人の臣下の、決意だった。


ガルドはゆっくりと立ち上がる。

鎖が鳴る。


黄土色の瞳が、獣のように光る。


「……なら、そろそろ動くか?」


エーレンは薄く笑った。


「陛下がお戻りになられた時、すべてが整っていなければならない」


その目は、静かに燃えている。


夜の地下牢で、二人の忠臣は同じ未来を見ていた。


――魔道皇帝の帰還。


その時まで、牙は隠しておく。



地下牢の空気が、ふっと変わった。


石壁に染みついた湿気が震え、燭台の炎が揺らぐ。

目に見えない何かが、空間を押し広げるように満ちていく。


ガルドが、はっと顔を上げた。


戦場で幾度も死線を潜ってきた本能が、警鐘を鳴らす。

だがそれは敵意ではない。


懐かしい――

骨の髄に刻まれた、あの圧。


視線の先、ゆらりと空間が歪む。


まるで水面に石を投げ込んだかのように、空気が波打ち、そこに人影が現れた。


漆黒の黒髪。

月光のように冷ややかな横顔。

そして、琥珀にも見える金色の瞳。


何よりも。


その身に宿る、圧倒的な魔力。


弱ってはいるがそれでもなお、他の誰とも違う。


皇帝の魔力。


「……っ」


喉が詰まる。


次の瞬間、ガルドは崩れ落ちるように膝をついていた。


「ぁ……あああああっ……陛下!!」


声にならない叫びが、石壁に反響する。

拳を床に叩きつけ、肩を震わせる。


生きている。

目の前にいる。


遅れて、エーレンが息を呑んだ。


その理知的な瞳が、わずかに揺らぐ。


「……陛下……なのですか?」


問いは震えていた。

そして、目の前の光景に驚いていた。


立つ少年は、以前よりも若い姿をしている。

漂う空気も、どこか柔らいでいる。


だが。


「お前たちは、私がわかるのだな……」


低く、静かな声。二人を射抜く無機質な眼差し。


その佇まいは、それだけで場を支配する皇帝の威光を放っていた。


ガルドは顔を上げ、涙を流しながら叫ぶ。


「その懐かしい魔力……忘れることなど、ございません!」


嗚咽が混じる。


「この身が朽ちようとも、陛下の魔力だけは……!」


エーレンもまた、ゆっくりと片膝をついた。


深く、深く頭を垂れる。


「どれほどの辛酸を嘗めようとも、この日を信じておりました」


声は静かだが、抑えきれぬ感情が滲む。


「こうして再び御前に立てますこと、望外の喜びにございます」


完璧な臣下の礼。


だがその頬を、一筋の涙が伝っていた。


ヴィルヘルムは二人を見つめる。


かつての自分なら、何も感じなかっただろう。


忠義は当然。情は不要。臣下は役目を果たすだけでよい。


そう、思っていた。


だが今は違う。


胸の奥が、じんわりと温かい。


(俺にも……待っていてくれる臣下がいたのだな)


見捨てられたわけではなかった。

恐れられるだけの皇帝ではなかった。


自分の帰還を、信じていた者がいる。


その事実が、こんなにも心を満たすとは。


脳裏に浮かぶのは、ひとりの少女。


柔らかな微笑み、迷いのない瞳。


――エレナ。


絶望の淵に沈んでいた自分に、手を差し伸べた光。


あの声、あの温もり。


(あの光を、繋いだ手を、永遠に俺だけのものにする。……そのために、俺は――)


ヴィルヘルムの瞳が、鋭く細められる。


「――――私は魔力を取り戻し、皇位を奪い返す」


地下牢の空気が震えた。


言葉に、強い意思が宿る。


かつての無気力な皇帝ではない。

虚無を抱え、ただ淡々と政務をこなしていた男ではない。


エーレンとガルドが、顔を上げる。


この変化は何だ。


何に対しても無関心だった陛下が、こんな熱を帯びた声を出すなど。


ヴィルヘルムは、まっすぐに二人を見た。


「どうしても、手に入れたいものが出来た」


その言葉は短いが、そこに宿る決意は揺るがない。


「協力してくれるか」


それは命令ではなく、願い。


皇帝が、臣下に願う。


その事実に、二人は息を呑む。


崇拝してきた主が、初めて見せる“人”の顔。


ガルドは拳を握りしめる。


エーレンは深く頭を垂れる。


そして、同時に。


ザッ――


石床に片膝をつき、声を揃えた。


「――――命にかえましても」


地下牢に満ちるのは、再び動き出した運命の鼓動。


皇帝の帰還。


その幕は、静かに上がった。


舞台は――


ヴァルデンライヒ王国との調印式へと、移り変わっていく。


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