第十一話:特別になるために
明日、魔道皇国ルーメンシュタットの皇都ルーメンに到着する。
国境を越えてからというもの、空気がわずかに重い。
夜の帳が下りた宿もまた、どこか張り詰めていた。
*
エレナは部屋で一人、窓辺に立っていた。
遠くに見える皇都の灯りが、星のように瞬いている。
――ここが、ビルの生まれた国。
胸の奥に小さな不安がよぎった、その時。
コン、コン。
控えめなノック。
「どうぞ」
扉が開き、現れたのはビルだった。
月明かりに照らされた横顔は、どこか静かすぎる。
「あいつは?」
低い声。
「ジャック様達は、明日に備えて会議をされているわ」
「……そう」
少しの沈黙。
「……ねぇ」
「どうしたの、ビル?」
ビルはまっすぐエレナを見上げる。
その瞳は普段より深く、揺れているように見えた。
「エレナは……俺が何者でも、大切に思ってくれる?」
唐突な問い。
けれどその奥に、切実な何かが潜んでいる。
エレナは迷わなかった。
「もちろんよ。ビルはビルだわ」
真剣な眼差しで、はっきりと言う。
魂の本質は変わらない。
前世と現世。
姿も立場も違っても、根底にあるものは同じ。
それを、エレナは知っている。
「例えどんなことがあろうとも、あなたは大切な子よ」
ビルの瞳が、わずかに見開かれる。
そして――
「……そう」
安堵が滲む声。
ふっと、口元がほころんだ。
その笑みは、幼い少年そのもの。
「俺、エレナを幸せにしてあげたいんだ」
唐突に続いた言葉。
エレナは瞬きをする。
「いつも俺の傍で、笑っていてほしいんだ」
胸の奥が、かすかにざわめく。
ビルの瞳は真剣だった。
「……そのために、やる事があるんだ」
まっすぐな瞳。
だが、エレナにはその変化に気づかない。
その瞳の奥で、甘く揺れる光が密やかに灯っているのを。
エレナは少し困ったように微笑む。
「……そう。よく分からないけど、無理はしちゃだめよ?」
心配が先に立つ。
するとビルが、ふっと吹き出した。
「エレナって、たまに母親みたいだよ」
くすくすと笑う。
「うっ……」
心当たりが多すぎて、言葉に詰まるエレナ。
その様子を楽しむように、ビルは一歩近づいた。
「ねぇ、エレナ……」
声色が変わる。
甘く、低く。
見たことのない眼差し。
月光を受けて、琥珀にも見える金色の瞳がゆらりと揺れ、ゆっくりと細められる。
一瞬、息が詰まる。
いつもの少年の顔ではない。
――“男”の顔。
距離が、近い。
ビルはそっと顔を寄せる。
「俺も“特別”になりたいんだ」
囁きが耳元を掠める。
「少しだけ、待っててね……エレナ」
ちゅ、と。
耳に触れるだけの軽い口づけ。
心臓が跳ねる。
「……おやすみなさい」
何事もなかったかのように、ビルは扉へ向かう。
開き、閉じられる音。
残されたのは、呆然と立ち尽くすエレナ。
耳に残る熱と、わずかな違和感。
*
翌朝、ビルの姿はどこにもなかった。
寝台は整えられ、私物も消え、そこに彼がいた証は何ひとつ残っていない。
静まり返った廊下に、重たい沈黙だけが広がっていた。
――そして。
ビルはいなくなった。




