第九話:名のない感情と運命の歯車
(ビル視点)
――あいつといる時のエレナは、いつもと違う。
ビルは静かにエレナを観察していた。
嬉しそうに笑う顔、少し照れたように視線を逸らす仕草。
潤んだ瞳で、真っ直ぐにあいつ――ジャックを見つめる表情。
そして気づいてしまう。
エレナは無意識に、いつもあいつを目で追っている。
……なぜか、面白くない。
胸の奥がざらりとする、刺された時の痛みとは違う。
けれど、どこか苦しくて、落ち着かない。
ある日、とうとう聞いてしまった。
「エレナは、あいつのどこが良いの?」
自分でも驚くほど、声は平坦だった。
「顔?お金があるから?王族だから?」
「そっ、それは……」
エレナは言葉に詰まり、頬を染める。
そして、恥ずかしそうに微笑んだ。
「ジャック様は……特別なの……」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
「でも、性格悪そう。偉そうだし。エレナ、いつも振り回されてる」
思ったままを口にする。
エレナは苦笑した。
「確かにそうなんだけれど」
少し照れながら、続ける。
「私を、とても大切にしてくれるの」
その声は、柔らかくて、温かくて。
「私のこと、全部受け止めてくれる。……大切な人なの」
その言葉が、胸に刺さる。
静かに問いがこぼれた。
「……俺は?」
エレナが驚いてこちらを見る。
「俺じゃ、エレナの“特別”になれない?」
自分でも分からない感情だった。
怒りでもない。悲しみでもない。
ただ、確かめたかった。
エレナは一瞬目を見開き、そして優しく微笑んだ。
「私にとってビルは、大切な家族よ」
その言葉は、温かい。
けれど、どこか物足りない。
「大好きよ、ビル」
そっと頭を撫でられる。
優しい手のひら。
甘い香り。
安心する温もり。
「…………」
ビルは黙ったまま、エレナの身体に寄り添う。
家族。
それは守られる立場。
無償の愛を与えられる存在。
――けれど。
さっき胸を締めつけたこの感情は、何だ?
刺された時の痛みは一度きりだった。
だがこれは、何度でもじわじわと広がる。
あいつといる時のエレナの顔を、思い出す。
あの笑顔を、独り占めできたら。
そう考えた自分に、ビルは気づかないふりをした。
まだ、これは名前のない感情。
けれど確かに、胸の奥で芽吹き始めていた。
*
王都より、国王陛下からの急使が届いたのは、月明かりが静かに差し込む夜のことだった。
応接室には重い空気が満ちている。
ジャック、レオンハルト、ハインリヒ、そしてエレナ。
封蝋を解いたジャックは、読み進めるにつれ目を細めた。
「……ルーメンシュタット魔道皇国から、新皇帝即位に併せヴァルデンライヒ王国と国交を結びたいとの親書が届いた」
静かな声が、室内に落ちる。
「正式な外交使節の派遣要請だ。俺が特命全権大使として出向くように、とのことだ」
特命全権大使とは、国の交渉や決定を行える国王陛下の代理人だ。
エレナは息をのむ。
ルーメンシュタット魔道皇国。
その名に、心の奥がわずかにざわめく。
「エレナ」
ジャックが視線を向ける。
「次期王弟妃として、同行してもらう」
一瞬の間。
エレナはまっすぐに頷いた。
「……はい」
「私は魔塔を統べる魔道士として、表向きは教育視察という名目で同行します」
レオンハルトは薄く笑みを浮かべる。
「実際は内部調査ですね」
ハインリヒも低く頷いた。
新皇帝即位、急な国交要請。
――嫌な予感がする。
ジャックの瞳が鋭くなる。
「何かが、表に出る前の静けさだ。油断はするな」
重たい沈黙。
運命の歯車が、静かに回り始めていた。
*
翌日。
エレナから話を聞いたビルは、静かに言った。
「……俺も行く」
突然の申し出に、エレナは目を丸くする。
「ビル?」
「俺はルーメンシュタットの出身だ」
淡々とした声。
「家族に……会いたい」
その言葉に、わずかな揺れがあった。
エレナの胸がきゅっと締めつけられる。
「家族に会えるなら……」
エレナはジャックに向き直る。
「どうか、ビルも同行させてください」
ジャックはビルをじっと見つめた。
年相応に見える少年。
だが、その奥に潜む何かが心をざわつかせる。
「……構わない。ただし、俺の目の届く範囲でだ」
「ありがとうございます!」
エレナが嬉しそうに笑う。
その横で、ビルは静かにルーメンシュタットの方角を見つめていた。
その瞳には、決意が宿っている。
もう迷いはない。
*
出発の朝。
ローゼンバーグ伯爵家の庭で、別れの挨拶が交わされる。
エレナは家族と抱き合い、笑顔で手を振る。
ビルも深く一礼した。
その様子を、少し離れた場所からレオンハルトが見つめている。
(……やはり)
ふと蘇る記憶。
かつて対面したルーメンシュタットの皇族。
あの時感じた、圧倒的で澄んだ魔力。
(そうか……あの皇族の魔力に、似ていたのか)
ビルの背中を見る、静かで揺るがない気配を感じる。
まさか――。
胸の内で確信が形を持ち始めるが、今はまだ言わないことにする。
馬車がゆっくりと動き出す。
王国と帝国を結ぶ道。
その先に待つのは、再会か、対峙か。
ビルは一度だけ振り返り、そして前を向いた。
運命は、もう後戻りできないところまで来ている。




