第八話:甘い囁きと静かな火種
夏の陽射しがやわらいだ午後。
ローゼンバーグ伯爵領の門前に、王家の紋章を掲げた一団が姿を現した。
先頭に立つのはジャック。
その隣にはレオンハルト。
国境視察を終えたばかりの帰路、その足でエレナを迎えに来たのだ。
「エレナ!」
馬を降りるや否や、ジャックは迷いなく彼女を抱きしめる。
強く、甘く、ためらいなく。
「会いたかった……」
耳元で落とされる低い囁き。
エレナは一瞬目を瞬かせ、それから穏やかに微笑み返す。
「……はい。私も会いたかったです」
そっと抱きしめ返し、胸の奥で小さく呟く。
(久しぶりだな……この感じ)
情熱的で、独占的で、少し息が詰まるような熱。
「いい子にしていたか?」
ジャックは彼女の髪に頬を寄せる。
「浮気は許さないぞ」
甘い声。
だがその奥には本気の独占欲が滲む。
エレナはくすりと笑った。
「ふふ……領地の運営や、ビルと遊ぶので忙しかったですよ」
そこで、ふと思い出したように視線を向ける。
「あ、そうです。紹介しますね」
少し離れた場所で、不満そうに立っている少年へ。
「ビル。こちらは――」
ビルは無言でジャックを見上げる。
金とも琥珀ともつかぬ瞳。
静かで、底の読めない視線。
ジャックは穏やかな笑みを浮かべた。
「ジャックだ。世話になっているそうだな」
表向きは柔らかな挨拶。
だがその目は、わずかに細められる。
(この少年が、影からの報告にあった身元不明の者か)
諜報組織“影”からの報告はすでに受けている。
正体不明。
高い知能。
そして――異質な気配。
(子どものくせに……何かが違う)
隣で様子を見ていたレオンハルトも、無言でビルを観察していた。
(かすかに魔力を感じる……この魔力どこかで……)
一瞬、胸の奥がざわめく。
思い出せない。
だが確かに、記憶のどこかを掠める感覚。
ビルは視線を逸らさない。
(ヴァルデンライヒ王国の王族か……)
警戒を隠す、だが表情は崩さない。
「……よろしく」
淡々と、それだけ告げた。
*
騎士団はしばらく休養を取ることになり、
ジャックたちは伯爵家に滞在することとなった。
ローゼンバーグ伯爵は緊張を隠しきれない様子で出迎える。
「よ、ようこそお越しくださいました」
歓迎の準備は万端だ。
屋敷はいつにも増して慌ただしい。
*
その夜の晩餐。
長い食卓に並ぶ料理。
談笑の中、話題は自然と国境情勢へ移った。
「ルーメンシュタットは、こちらを警戒している素振りはありませんでしたね」
レオンハルトが静かに言う。
「正直、拍子抜けでした」
副官のハインリヒが頷く。
だがジャックはワインを傾けながら、視線を伏せた。
「国境よりも重要な何かが、向こうで動いている」
低く、思案する声。
「向こうは今、外敵どころではないようだ」
空気がわずかに引き締まる、誰も軽々しく言葉を挟まない。
その様子を――
ビルは、黙って見つめていた。
料理にはほとんど手をつけず、会話を一語一句逃さぬように。
(……俺をまだ探しているか)
胸の奥で、小さく何かが燃える。
ルーメンシュタット。
その名を聞くだけで、
過去の記憶がかすかに疼く。
だが表情は変えない。
ただ静かに、
王族たちの会話を聞いていた。
少年の瞳の奥で、
静かな火種が揺れていた。
*
晩餐が終わり、客人たちがそれぞれの部屋へ戻り始めた頃。
不意に――
「エレナ」
低い声と同時に、ふわりと身体が浮く。
「きゃっ!?」
気づけば、エレナはジャックの腕の中にいた。
軽々と抱き上げられ、そのまま廊下を進まれる。
「さぁ、恋人たちの時間だ」
にやり、と悪戯っぽく笑う王弟陛下。
「ふぁっ!? ちょ、ちょっと待ってください!」
(ここ実家なんですけどー!?)
内心で盛大に叫ぶエレナ。
だがジャックは意に介さない。
それを見送るローゼンバーグ伯爵と家族、そして使用人たちは――
「あぁ……」
という顔で静かに目を逸らす。
すっかり諦めモードである。
レオンハルトは肩をすくめた。
「相変わらずですね」
隣でハインリヒが苦笑する。
「この空気、久しぶりだなぁ……」
ただ一人、ビルだけが無表情でその背を見送っていた。感情の読めない瞳で。
*
部屋に入るなり、ジャックはエレナをそっと降ろす――が、距離は近い。
逃がさないとばかりに腰へ腕を回す。
「俺に話すことがあるだろう」
「はい?」
首を傾げるエレナ。
ジャックはじっと覗き込む。
「随分と、あの少年と仲良くしていたらしいな」
声音は穏やか。
だが目が笑っていない。
「あ……」
嫌な予感。
「毎日抱きしめ合っていたようだな。影から全部聞いている」
「言い方っ!」
思わず抗議する。
「ビルはまだ八歳ですよ!?」
「それでも男には変わりない」
真顔で言い切るジャック。
(あの子ども……妙に落ち着いた目をしていた。いったい、何を隠している)
――だからこそ、面白くない。
腕の力がわずかに強まる。
「俺のいない間に、ずいぶん親密になったようだな?」
完全に嫉妬である。
エレナは数秒ぽかんとした後――
堪えきれず、吹き出した。
「ふふっ……」
「何がおかしい」
「だって……本気で言ってます?」
くすくすと笑う彼女に、ジャックはむくれる。
「俺は本気だ」
本当に不貞腐れた顔。
その様子があまりにも大人げなくて、エレナはますます可笑しくなる。
笑いながら、ふと呟いた。
「……私、思ったんです」
「何をだ」
「いつか、ビルみたいな子どもが欲しいなって」
一瞬、空気が止まる。
「……あんな愛想のない子どもは嫌だ」
即答。
「えぇ?」
「もっと素直で可愛い子がいい」
「それなら、私に似た娘にしましょうか」
いたずらっぽく微笑む。
「ふふっ」
ジャックは真顔になる。
「なら嫁には出せんな」
「……はい?」
「絶対に出さん」
即答、しかも本気。
エレナは目を丸くし、それからまた笑い出す。
「国の英雄でも、普通の父親なんですね」
「俺を何だと思っている」
呆れたように言いながらも、口元は緩んでいる。
二人は顔を見合わせる。
そして同時に、ふっと笑った。
嫉妬も、冗談も、未来の話も。
全部ひっくるめて愛おしい。
窓の外では、夏の夜風が静かに木々を揺らしている。
恋人たちの夜は、
穏やかに、そして甘く、更けていった。




