第七話:幸せな時間
体調が回復してから、ビルはローゼンバーグ伯爵家で雑用係として働くことになった。
表向きは“身寄りのない子どもを保護している”という形だ。
「覚えが早いねぇ……」
「もう帳簿の読み方分かるのかい?」
使用人たちは目を丸くする。
掃除、配膳、備品整理。
一度教えられれば二度目はない。
指示の意図まで察して動くその様子に、年長の使用人たちでさえ舌を巻いた。
(当然だ)
ルーメンシュタット王家の自分にとって、
この程度の作業は児戯に等しい。
だが――
「ビル、重いものは無理しないでね」
そう声をかけてくる存在がいるだけで、妙に調子が狂う。
*
ある日の午後。
書類を届けに執務室へ向かったときだった。
机の上に広げられた企画書が、視界に入る。
何気なく目を走らせ――
手が止まった。
(……何だこれは)
農業改革案。
流通経路の再構築。
孤児の職業教育制度。
魔力触媒を利用した新型肥料の開発構想。
理論構築も数値予測も現実的。
それでいて、発想は大胆。
(ルーメンシュタットでも、こんな事業案は聞いたことがない……)
官僚たちは保守的だ。
前例主義。
失敗を恐れ、革新を嫌う。
だがこの案は違う。
未来を前提に組み立てられている。
(ただの令嬢にこんな事が出来るのか……?)
足音がして、ビルはすぐに書類から目を離す。
エレナだった。
「ビル? どうかしたの?」
いつもの穏やかな笑顔。
だが今、ビルの目には違って見えた。
ただの優しい令嬢ではない。
(この女は、何者だ)
湖で抱きしめた腕。
夜に語る物語。
そしてこの企画書。
点と点が、結びつかない。
だが確実に、常識の外にいる。
「……別に」
そう答えながらも、視線が逸らせない。
気づけば、
仕事中も。
廊下を歩いていても。
本を読んでいても。
――エレナのことを考えている。
(……なぜだ)
興味か。
警戒か。
それとも。
胸の奥に、小さな熱が灯る。
まだ名前のない感情。
ビルは、自分自身に驚いていた。
(本当に……興味が尽きないな)
そして気づく。
いつの間にか。
この一人の少女が気になっている自分に。
*
ビルは目立つ。
本人が望まずとも。
整った顔立ち。
金にも琥珀にも見える瞳。
どこか影を帯びた静かな佇まい。
体調が回復し、城内で働くようになると、使用人たちや領民が何かと声をかけてきた。
「ビルくん、これ運ぶの手伝ってくれる?」
「まぁまぁ、綺麗な顔してるわねぇ」
頭を撫でようとする手。
菓子を差し出す手。
気さくに笑いかける顔。
だが――
ビルは基本的に無表情だ。
必要な受け答えはする。
仕事も完璧にこなす。
しかし、それ以上は踏み込ませない。
「……別に」
「用がないなら失礼します」
距離を保つ。
特に顕著だったのは、若い侍女や町娘たちに対してだった。
「ビルくん、今度一緒に湖に行かない?」
「良かったら、食事に行ってくれない?」
頬を染めながら話しかけてくる少女たち。
だがビルは、淡々と視線を向けるだけ。
「興味ない」
「忙しい」
期待を断ち切るような声音。
「……ひどい」
目に涙を浮かべ、少女たちは去っていく。
その様子を見て、周囲はため息をつく。
「また泣かせたの?」
「罪な子ねぇ……」
*
ある日の午後。
廊下でその光景を目撃したエレナは、ビルを呼び止めた。
「ビル」
「なに」
腕を組み、じっと見上げる。
蒼と菫の瞳が、少しだけ困った色を帯びていた。
「皆とも仲良くしましょう?」
やんわりとした声だが、どこか“お説教”の気配がある。
ビルは視線を逸らした。
「必要ない」
「必要あるわ。あなたはここで暮らすのよ?」
「……」
エレナは小さくため息をつく。
「冷たくしなくてもいいじゃない。あの子たち、勇気を出して話しかけてるのよ?」
ビルは少しだけ眉を寄せる。
そして、当然のことのように言った。
「エレナとさえいられれば、それで良い」
空気が止まる。
「……え?」
「他はいらない」
迷いのない声。
エレナは数秒固まり、それから困ったように笑った。
「もう……困った子ね」
けれど、その声音はどこか優しい。
ビルは本気で分かっていない。
なぜ他者と関係を築く必要があるのか。
なぜ広く繋がることが大切なのか。
彼にとって“必要”とは、
自分が選んだ存在だけだ。
だが――
エレナは気づいている。
以前のビルなら、
そもそも他人の言葉を気にしなかった。
今は違う、ほんの僅かだが、変化している。
「……もう少し、様子を見ましょう」
エレナは心の中でそう呟く。
急がなくていい、無理に広げなくていい。
彼の世界は、閉ざされていた分だけ狭い。
ならば、少しずつ。湖の波紋のように、ゆっくりと。
エレナは暖かな眼差しでビルを見つめる。
ビルはその視線に気づきながらも、知らないふりをした。
けれど――
その口元は、ほんのわずかに緩んでいた。
*
夕暮れの城内は、柔らかな橙色に染まっていた。
今日の雑務も滞りなく終えたビルは、書類を所定の棚に戻し、静かに執務室を出る。
指示は的確に理解し、作業は正確で早い。
今では使用人たちも、彼の有能さを疑わない。
ある部屋で立ち止まると控えめに扉を叩く。
「どうぞ」
聞き慣れた声。
扉を開けると、机に向かっていたエレナが顔を上げた。
白金の髪が夕陽を受けて淡く輝く。
蒼と菫の瞳が、ふわりと和らいだ。
「お疲れさま、ビル」
ビルは数歩近づき――
無言で、エレナの前に立つ。
そして。
す、と頭を差し出した。
「………ん」
ビルが小さく喉を鳴らす。
エレナは瞬きをする。
「……?」
数秒の沈黙。
ビルは少しだけ眉を寄せ、視線を逸らしたまま続ける。
「……褒めてくれないの?」
その言葉に、エレナは目を見張った。
そして――
堪えきれず、くすりと笑う。
立ち上がり、そっとビルの頭に手を乗せる。
絹糸の様な少年の黒い髪を、優しく撫でる。
「えらいわ、ビル」
ゆっくり、丁寧に。
「今日もよく頑張ったわね」
指先が、安心させるように髪を梳く。
「大好きよ」
その一言に、ビルの肩から力が抜ける。
目を細め、
ほんの少しだけ、口元が緩む。素直な笑み。
それは、城の誰にも見せない表情だった。
「……当然だ」
小さく呟くが、声はどこか満足げだ。
撫でられる感触。温もり。褒められること。
甘えるという多幸感。
彼にとって、それは初めてのものばかりだった。
強大な魔力ゆえに隔離され、
腫物のように扱われ、
触れられることもなく育った少年。
ただ――
頑張ったことを認められ、
存在を肯定される時間。
夕陽の中、
エレナの手の下で目を細めるビル。
そこには確かに、彼がこれまで一度も手にしたことのない、本物の幸福があった。




