表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
54/75

第七話:幸せな時間

体調が回復してから、ビルはローゼンバーグ伯爵家で雑用係として働くことになった。


表向きは“身寄りのない子どもを保護している”という形だ。


「覚えが早いねぇ……」

「もう帳簿の読み方分かるのかい?」


使用人たちは目を丸くする。


掃除、配膳、備品整理。

一度教えられれば二度目はない。


指示の意図まで察して動くその様子に、年長の使用人たちでさえ舌を巻いた。


(当然だ)


ルーメンシュタット王家の自分にとって、

この程度の作業は児戯に等しい。


だが――


「ビル、重いものは無理しないでね」


そう声をかけてくる存在がいるだけで、妙に調子が狂う。



ある日の午後。


書類を届けに執務室へ向かったときだった。


机の上に広げられた企画書が、視界に入る。


何気なく目を走らせ――


手が止まった。


(……何だこれは)


農業改革案。

流通経路の再構築。

孤児の職業教育制度。

魔力触媒を利用した新型肥料の開発構想。


理論構築も数値予測も現実的。

それでいて、発想は大胆。


(ルーメンシュタットでも、こんな事業案は聞いたことがない……)


官僚たちは保守的だ。

前例主義。

失敗を恐れ、革新を嫌う。


だがこの案は違う。


未来を前提に組み立てられている。


(ただの令嬢にこんな事が出来るのか……?)


足音がして、ビルはすぐに書類から目を離す。


エレナだった。


「ビル? どうかしたの?」


いつもの穏やかな笑顔。


だが今、ビルの目には違って見えた。


ただの優しい令嬢ではない。


(この女は、何者だ)


湖で抱きしめた腕。

夜に語る物語。

そしてこの企画書。


点と点が、結びつかない。


だが確実に、常識の外にいる。


「……別に」


そう答えながらも、視線が逸らせない。


気づけば、


仕事中も。


廊下を歩いていても。


本を読んでいても。


――エレナのことを考えている。


(……なぜだ)


興味か。

警戒か。

それとも。


胸の奥に、小さな熱が灯る。


まだ名前のない感情。


ビルは、自分自身に驚いていた。


(本当に……興味が尽きないな)


そして気づく。


いつの間にか。


この一人の少女が気になっている自分に。



ビルは目立つ。


本人が望まずとも。


整った顔立ち。

金にも琥珀にも見える瞳。

どこか影を帯びた静かな佇まい。


体調が回復し、城内で働くようになると、使用人たちや領民が何かと声をかけてきた。


「ビルくん、これ運ぶの手伝ってくれる?」

「まぁまぁ、綺麗な顔してるわねぇ」


頭を撫でようとする手。

菓子を差し出す手。

気さくに笑いかける顔。


だが――


ビルは基本的に無表情だ。


必要な受け答えはする。

仕事も完璧にこなす。


しかし、それ以上は踏み込ませない。


「……別に」

「用がないなら失礼します」


距離を保つ。


特に顕著だったのは、若い侍女や町娘たちに対してだった。


「ビルくん、今度一緒に湖に行かない?」

「良かったら、食事に行ってくれない?」


頬を染めながら話しかけてくる少女たち。


だがビルは、淡々と視線を向けるだけ。


「興味ない」

「忙しい」


期待を断ち切るような声音。


「……ひどい」


目に涙を浮かべ、少女たちは去っていく。


その様子を見て、周囲はため息をつく。


「また泣かせたの?」

「罪な子ねぇ……」



ある日の午後。


廊下でその光景を目撃したエレナは、ビルを呼び止めた。


「ビル」


「なに」


腕を組み、じっと見上げる。


蒼と菫の瞳が、少しだけ困った色を帯びていた。


「皆とも仲良くしましょう?」


やんわりとした声だが、どこか“お説教”の気配がある。


ビルは視線を逸らした。


「必要ない」


「必要あるわ。あなたはここで暮らすのよ?」


「……」


エレナは小さくため息をつく。


「冷たくしなくてもいいじゃない。あの子たち、勇気を出して話しかけてるのよ?」


ビルは少しだけ眉を寄せる。


そして、当然のことのように言った。


「エレナとさえいられれば、それで良い」


空気が止まる。


「……え?」


「他はいらない」


迷いのない声。


エレナは数秒固まり、それから困ったように笑った。


「もう……困った子ね」


けれど、その声音はどこか優しい。


ビルは本気で分かっていない。


なぜ他者と関係を築く必要があるのか。

なぜ広く繋がることが大切なのか。


彼にとって“必要”とは、

自分が選んだ存在だけだ。


だが――


エレナは気づいている。


以前のビルなら、

そもそも他人の言葉を気にしなかった。


今は違う、ほんの僅かだが、変化している。


「……もう少し、様子を見ましょう」


エレナは心の中でそう呟く。


急がなくていい、無理に広げなくていい。


彼の世界は、閉ざされていた分だけ狭い。


ならば、少しずつ。湖の波紋のように、ゆっくりと。


エレナは暖かな眼差しでビルを見つめる。


ビルはその視線に気づきながらも、知らないふりをした。


けれど――


その口元は、ほんのわずかに緩んでいた。



夕暮れの城内は、柔らかな橙色に染まっていた。


今日の雑務も滞りなく終えたビルは、書類を所定の棚に戻し、静かに執務室を出る。


指示は的確に理解し、作業は正確で早い。


今では使用人たちも、彼の有能さを疑わない。


ある部屋で立ち止まると控えめに扉を叩く。


「どうぞ」


聞き慣れた声。


扉を開けると、机に向かっていたエレナが顔を上げた。


白金の髪が夕陽を受けて淡く輝く。

蒼と菫の瞳が、ふわりと和らいだ。


「お疲れさま、ビル」


ビルは数歩近づき――


無言で、エレナの前に立つ。


そして。


す、と頭を差し出した。


「………ん」


ビルが小さく喉を鳴らす。


エレナは瞬きをする。


「……?」


数秒の沈黙。


ビルは少しだけ眉を寄せ、視線を逸らしたまま続ける。


「……褒めてくれないの?」


その言葉に、エレナは目を見張った。


そして――


堪えきれず、くすりと笑う。


立ち上がり、そっとビルの頭に手を乗せる。


絹糸の様な少年の黒い髪を、優しく撫でる。


「えらいわ、ビル」


ゆっくり、丁寧に。


「今日もよく頑張ったわね」


指先が、安心させるように髪をく。


「大好きよ」


その一言に、ビルの肩から力が抜ける。


目を細め、

ほんの少しだけ、口元が緩む。素直な笑み。


それは、城の誰にも見せない表情だった。


「……当然だ」


小さく呟くが、声はどこか満足げだ。


撫でられる感触。温もり。褒められること。


甘えるという多幸感。


彼にとって、それは初めてのものばかりだった。


強大な魔力ゆえに隔離され、

腫物のように扱われ、

触れられることもなく育った少年。


ただ――


頑張ったことを認められ、

存在を肯定される時間。


夕陽の中、

エレナの手の下で目を細めるビル。


そこには確かに、彼がこれまで一度も手にしたことのない、本物の幸福があった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ