第六話:はじめての安らぎ
夜の静けさが、ローゼンバーグ城を包んでいた。
窓の外では、夏の虫の声が遠く揺れている。
客間の灯りは落とされ、柔らかなランプの明かりだけが揺れている。
寝台に横たわるビルの傍に、エレナは静かに腰を下ろした。
「眠れそう?」
穏やかな声が降りる。
白金の髪がランプの光を受けて柔らかく輝いている。
蒼と菫の瞳が、静かにこちらを見つめていた。
「……別に」
素っ気なく返す。
「好きな絵本はある?」
唐突な問い。
ビルは眉を寄せる。
絵本?
そんなものを読んでもらった記憶はない。
書物なら山ほど読んだ。
歴史書も魔導理論も戦術書も、禁書庫の書も。
だが、誰かに“読んでもらう”という経験は――。
「ない」
短く答える。
エレナは少し考え、ふわりと笑った。
「なら、私の知っているお話をしてあげる」
エレナは少しだけ姿勢を正す。
「昔むかし、あるところに――」
ゆっくりと、柔らかく、歌うように語り始める。
勇敢な騎士の話でも、壮大な戦記でもない。
小さな森に住む子狐と、月の光を集める少女の物語。
失くしたものを探して旅をする、優しいお話。
ビルは黙って聞いていた。
本当は、聞くつもりはなかった。
だが――声が、心地よかった。
高すぎず、低すぎず。
柔らかく、温かい。
物語が終わる頃には、部屋の空気まで穏やかになっていた。
「……そんな話、聞いたことがない」
ビルはぽつりと呟く。
不思議そうな顔。
(あらゆる書物を読んだ俺が知らない話があるとは)
エレナはくすりと笑った。
「ふふ……遠い国のお話なのよ」
秘密を分けるような声音。
ビルはわずかに眉を寄せる。
遠い国?
そんな民話、記録にない。
それとも、この女の創作か?
「また明日、面白いお話をしてあげる」
そう言って立ち上がる。
ビルの身体が、わずかに強張る。
――触れるのか。
生まれてから、誰も自分に触れなかった。
強大な魔力を持つ子ども。
制御不能になれば危険。
報復を恐れ、誰も近づかなかった。
腫物のように扱われ、
必要最低限の世話だけが与えられた。
温もりを知らない。
触れられた記憶といえば――
血の匂い。
短剣の冷たい刃。
肉を裂く痛み。
それだけだ。
エレナの指が、そっと頭に触れた。
びくり、と反射的に肩が跳ねる。
だが――
痛みは来ない、押さえつけられない。
ただ、やわらかく撫でられる。
指先が、優しく髪を梳く。
穏やかな声が落ちる。
「おやすみなさい」
そのまま、少しだけ撫でる。
体の奥がざわついて、知らない感覚が押し寄せる。
胸の奥が、静かにほどけていく。
(……なんだ、これは)
警戒しなければ、いけないのに。
それでも――
この女といるのは、
そんなに嫌じゃない。
むしろ。
目を閉じる。
誰かがそばにいるまま眠るのは、初めてだ。
見えない敵に備えなくていい夜も、初めてだ。
夏の虫の声が遠く揺れる。
ビルは気づかぬうちに、浅く、穏やかな呼吸を繰り返していた。
それは――
彼の人生で、はじめての安らぎだった。
*
夏の陽射しが、やわらかく草原を照らしていた。
城から少し離れた湖のほとり。
水面はきらきらと光を跳ね返し、青空を映している。
「今日は気分転換にピクニックよ」
そう言って、エレナは籠を掲げた。
ビルはその後ろを歩きながら、周囲を警戒する癖が抜けないまま視線を巡らせる。
敵影なし。
魔力反応なし。
だが――隣にいる少女は、あまりにも無防備だ。
湖畔の木陰に布を広げ、エレナは楽しそうに籠を開いた。
「はい、できたわ」
取り出されたのは、丁寧に包まれたサンドイッチ。
「……お前が作ったのか?」
思わず声が低くなる。
「そうよ?」
当然のように答えるエレナ。
ビルは目を瞬かせる。
「貴族令嬢が作れるのか?」
皮肉でもなく、本気の疑問だった。
エレナはくすりと笑う。
「ふふ。私、変わってる令嬢なの」
どこか得意げに胸を張る。
白金の髪が陽光を受けて輝き、蒼と菫の瞳が悪戯っぽく細められる。
「さぁ、食べましょう。……うん、美味しい!」
自分で言って、にこにこと頬を緩める。
ビルは半信半疑で一口かじる。
ふわりと香るパン。
柔らかな卵。
塩気のきいたハム。
「……本当だ……美味しい」
小さく呟き、もそもそと食べ始める。
その様子を、エレナは嬉しそうに眺めていた。
まるで、宝物を見るように。
「……どうして」
不意に、ビルが言う。
「ん、なぁに?」
「どうしてお前は……そんな顔で、俺を見るんだ」
不安が滲んだ声。ただ、理解できないという戸惑い。
エレナはきょとんとしたあと、やわらかく微笑む。
そして、そっとビルを抱きしめた。
突然の温もりに、身体が強張る。
だが――ビルは振り払わない。
エレナの腕は、きつくもなく、弱くもない。
ただ包むだけ。
「そんな顔をしなくても大丈夫」
耳元で、優しい声が落ちる。
「あなたは必要とされる存在なのよ、ビル」
胸の奥が、じわりと熱くなる。
「幸せになるために生まれたの」
聞いたことがない言葉。
「大好きよ、ビル」
その言葉を、理解するのに時間がかかった。
大好き。
そんな言葉を向けられた記憶は――ない。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
ずっと凍っていた場所が、ひび割れていく。
……返し方が分からない。
だから代わりに、
ぎゅっと、服を掴んだ。
湖面を渡る風が、やわらかく二人を包んでいく。




