第三話:傷だらけの小さな来訪者
真夏の光に包まれながら、エレナは果樹園をゆっくりと歩いていた。
強い陽射しが葉の一枚一枚を透かし、青々と茂る枝の間からきらきらと光が零れている。甘く熟れ始めた果実の香りが、熱を帯びた空気に溶け込んでいた。
「土が固くなってきてるわ……」
エレナはしゃがみ込み、指先で土をほぐす。さらりと崩れるはずの土は、思ったよりも重い。
「腐葉土を増やすよう言わなくちゃ。水はけも少し落ちてるわね」
隣で控えていたマリアが小さく息を吐く。
「お嬢様、帰省早々お仕事モードですね……」
「だって気になるんだもの。有機肥料の開発状況もお兄様に確認しないと。前回の試験区画、もう結果が出ているはずよ」
視線は木々へ、足は自然と森の奥へ。
その少し離れた場所――気配を消した“王家の影”が、音もなく護衛している。
エレナは脇目も振らず、生育を確かめながらさらに奥へ分け入った。
その時だった。
「……あれ?」
木々の影、落ち葉の上に、不自然な色が見えた。
近づいた瞬間、エレナの瞳が大きく見開かれる。
小さな男の子が、倒れていた。
ボロボロの布切れのような服。
泥と乾いた血で汚れ、腕にも足にも無数の傷が走っている。
痩せ細り、呼吸は浅く、今にも消えてしまいそうだった。
「マリア、大変」
声が震える。
「男の子が倒れてるわ。すぐに手当しないと」
その瞬間、背後の気配が鋭く張り詰めた。
影が、周囲の警戒に散る。
だがエレナはためらわない。
迷いなく少年の傍に膝をつき、そっとその身体に触れた。
熱い。
異様なほどの高熱。
「……大丈夫よ」
聞こえているかも分からない。それでも優しく囁く。
「もう大丈夫」
「影の方、いらっしゃいますか?」
エレナは空へ向かってはっきりと声を張った。
木々の葉が揺れる音だけが返る。
だが、彼女は確信している。
「この子を運ぶのを手伝って下さい!」
一瞬の静寂。
「…………」
気配はある。だが、姿は見せない。
本来“影”が姿を現すのは、エレナの命が危険に晒された時のみ。任務は護衛であって、救助ではない。
規律は絶対。
それでも――
「私、困ってます。助けて下さい!」
真っ直ぐで、迷いのない声だった。
自分のためではない。
目の前の小さな命のための叫び。
数拍の沈黙の後、空気がわずかに歪む。
黒装束の男が、音もなく木陰に現れた。
「……命令違反になります」
低く抑えた声。
「すぐにローゼンバーグ城へ運んで下さい。責任は私が取ります」
エレナは一歩も引かない。
まっすぐに影を見上げるその瞳に、打算も恐れもなかった。
ただ“助けたい”という意志だけが宿っている。
影は言葉を失う。
その純粋な眼差しに、淡々と任務をこなすはずの心がわずかに揺れた。
……敵ではなく、罠でもない。
ただの、瀕死の子供。
「……承知しました」
小さく息を吐き、影は膝をつく。
そっと少年を抱き上げた。
驚くほど軽い。
影はわずかに目を細める。
……この気配は妙だ。
森に入った痕跡がない。
足跡、枝の折れ、血の飛沫の続きもない。
まるで――突然、ここに落ちたかのようだ。
顔立ちは整っている、幼いながら妙に端正な輪郭。
閉じられた睫毛は長く、泥に汚れていても隠しきれない気品の名残がある。
(……面倒な事になった)
影は内心で呟く。
(王弟殿下へ報告するの、ちょっと嫌だな……)
脳裏に浮かぶのは、最近やたらとエレナへの執着を隠そうとしない上司の顔。
冷静沈着なはずのあの方が、エレナの話題になると途端に理性を怪しくする。
――果樹園で正体不明の少年を拾いました。
どう説明すれば怒られないだろうか。
影は遠い目になった。
その横で、エレナは少年の額にそっと手を添える。
「大丈夫。すぐお城に着くわ」
その声は、夏の熱気の中でも不思議と柔らかく響いた。
影は木々の間を跳ぶ。
真夏の光が揺れ、森が一瞬静まり返る。
そして果樹園には、蝉の声だけが残った。
――この出会いが、運命を大きく動かすことになるとは、
まだ誰も知らない。




