第二話:伯爵一家の団らん
伯爵領、ローゼンバーグ城のダイニングホール。
高い天井から吊るされた燭台が柔らかな光を落とし、長い食卓には季節の料理が並んでいる。窓の外では、初夏の名残を含んだ風が庭の木々を揺らしていた。
「エレナ、本当に帰ってきてくれたのだな……!」
誰よりも嬉しそうなのは、ローゼンバーグ伯爵フリードリヒだった。
普段は威厳に満ちた当主も、今はただの父である。
「父様、大袈裟です」
エレナが微笑むと、フリードリヒは目元を押さえた。
「もう結婚式まで会えないと思っていたよ……」
しみじみと呟かれたその一言に、食卓の空気が一瞬止まる。
母は優雅に微笑んだまま固まり、兄は視線を逸らし、使用人たちも静まり返った。
――否定できない。
誰もが、うっすら同じことを思っていたからだ。
「…………」
エレナは、そっと遠い目になる。
(確かに……)
最近のジャック様の溺愛ぶりは、もはや常軌を逸している気がしないでもない。
帰省の話をしただけで、あの真剣な顔。
護衛に王家の影をつけると言い出し、視察が終わり次第迎えに来ると当然のように宣言する。
あの瞳。
あの声音。
(勢いが衰えないどころか、加速してる気がするのよね……)
思い出しただけで、頬が熱くなる。
だが同時に、ほんの少しだけ別の想像が頭をよぎった。
重厚な城の一室の鍵のかかった扉、甘く囁く声。
「君はここにいればいい」
(……監禁は嫌だ……)
ぶるり、と内心で震える。
愛ゆえなのは分かっている。
分かっているのだが――あの人はやりかねない。
「エレナ?」
母に名を呼ばれ、はっと現実に戻る。
「い、いえ、何でもありません」
慌てて笑顔を作ると、家族は顔を見合わせ、やがて小さく笑った。
久しぶりの団らん。
父の豪快な笑い声。
兄のからかい。
母の穏やかな相槌。
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。
(やっぱり、家族っていいな……)
和やかな空気の中、ふいに兄アルベルトが咳払いをひとつした。
「そうそう、領内で色々問題が起きてる。お前に相談したいんだ」
あまりに自然な切り出し方だったが、どこか必死さが滲んでいる。
母ヘレーネが即座に眉をひそめた。
「まぁ、エレナは帰ってきたばかりなんだから、少しは休ませてあげないと……」
優雅な声音とは裏腹に、非難の視線がアルベルトへ突き刺さる。
「いやいやいや、母上」
兄は両手を上げて抗議した。
「エレナが計画した事業がどれだけあると思ってるんだよ。新しい灌漑整備に、薬草栽培区画の拡張、孤児院支援の再編、それから商会との契約見直し……」
指折り数えながら、だんだん顔が青くなる。
「……俺はまだ結婚もしてないのに、先に領地に殺される気がする」
ついには本気で涙目になった。
エレナはぴたりと動きを止める。
「ごめんなさい、兄さま。確かに引継ぎも満足に出来ませんでした」
しゅん、と肩を落とす。
(まさか、婚約式の翌日にジャック様の邸宅に引っ越すなんて誰も予想してなかったし)
あの日を思い出し、思わず苦笑いが浮かぶ。
正式な式の後、当然のように「では我が邸へ」と連れていかれたのだ。
誰も、止められなかった。
……止められる人がいなかったとも言う。
「いや、責めてるわけじゃない。ただ……!」
アルベルトはテーブルに突っ伏しそうになりながら言った。
「せめて一週間、いや三日でいいから一緒に整理してくれ……!」
その必死さに、エレナの瞳がきらりと光る。
「丁度よい機会です」
すっと背筋が伸びる。
「引継ぎ、頑張ります!」
にこり、と完璧な笑顔。
空気が変わった。
これは――あの顔だ。
商人たちを震え上がらせ、領民を巻き込み、気づけば一大改革を成し遂げる時の顔。
“お仕事モード・エレナ”が爆誕した瞬間だった。
「まず現状の収支報告を。問題点を三つに分類しましょう。短期・中期・長期で対策を立てます」
「い、今からか?」
「善は急げですわ」
きらきらと輝く瞳。
アルベルトの背筋に冷たいものが走る。
母ヘレーネは優雅に紅茶を口に運びながら、そっと視線を逸らした。
そして少し離れた位置で控えていたマリアが、静かに溜息をつく。
(お嬢様が張り切る時は、大体ろくな事にならないんですよねぇ……)
案の定。
その夜、ローゼンバーグ城の書斎には遅くまで灯りがともることになるのだった。




