第一話:国境の視察と令嬢の帰省
王国騎士団執務室。
分厚い机の上には書類の山。
窓から差し込む午後の光が、壁に立て掛けられた長剣の刃を鈍く照らしている。
その重苦しい空気を、柔らかな声が揺らした。
「失礼いたします」
籠を抱えたエレナが、侍女マリアと供に控えめに顔を覗かせる。
「差し入れをお持ちしました」
瞬間、室内の空気が和らぐ。
「女神のご降臨だな」
誰かが小さく呟き、騎士たちの頬が緩んだ。
茶が配られ、束の間の休息が訪れる。
そして自然と、話題は隣国へ移った。
「ルーメンシュタット皇国の皇帝が崩御されたのですか?」
エレナが驚いたように目を見開く。
レオンハルトが頷いた。
「はい。あまりに急な事で……事故というのも正直、腑に落ちません」
穏やかな声音の奥に、警戒が滲む。
「ルーメンシュタットとは国交がありません。不測の事態に備え、国境地帯の警備を強化することになりました」
執務机に肘をついたまま、ジャックが低く呟く。
「魔道皇帝ヴィルヘルム・フォン・ナハトライヒ」
その名が、静かに空気を震わせる。
「彼は淀みなき国政を行っていたと聞く。誠に残念な事だ」
わずかな溜息。
エレナは胸の前で手を握る。
「心配ですね……」
その不安を打ち消すように、ジャックがにやりと笑った。
「だが」
一瞬の間。
「この国に付け入る隙など皆無だがな」
絶対的な自信と揺らぎのない声音。
(くっ、この傲慢なところがかっこいいのよね……)
エレナは内心で赤面する。
副官ハインリヒが腕を組んだ。
「魔道皇帝と言えば、大陸最強の魔道士と謳われた御方ですよね」
その眉根には、深い疑念の色が刻まれている。
「……我が団長と双璧をなす大陸の英雄。あの魔道皇帝が崩御したなどという噂、にわかには信じがたいですが」
静まり返る室内。
その沈黙を破るように、ジャックが立ち上がる。
「だからこそ油断はしない」
声音は冷静だが、瞳は鋭い。
「エレナ」
名を呼ばれ、彼女ははっと顔を上げた。
ジャックの表情は、先ほどまでの軍務の顔とは違う。
静かで、真剣で――そして、どこか優しい。
「レオンハルトと国境視察に行ってくる」
低く落ち着いた声音。
エレナの胸が、きゅっと締めつけられる。
「……はい」
そっと頷いた瞬間、長い指が彼女の頬に触れた。
指先が、驚くほどやわらかく撫でる。
「寂しい想いをさせる。すまない」
切なげな瞳で見つめられ、思わず視線を逸らしそうになる。
「確か、ローゼンバーグ伯爵の誕生会があると言っていたな」
声音が少しだけ和らぐ。
「一緒には行けないが、楽しんでくるといい」
愛しむような響き。
エレナは小さく微笑んだ。
「はい、ありがとうございます。久しぶりに家族と会えます」
その笑顔を見たジャックの目が、ほんのわずかに細められる。
だが次の瞬間、さらりと言った。
「今回は王家の影を護衛につけておく」
「えぇっ。そこまでされなくても……」
思わず声が裏返る。
恐縮して両手を振るエレナに、ジャックは静かに首を振った。
「私が心配なんだ……」
切なそうな目。
本気で案じているのが分かる。
その視線に、エレナは何も言えなくなる。
「視察が終わり次第、伯爵領に迎えに行く」
顔を近づけ、甘く囁く。
「いい子で待っているんだぞ」
耳元をかすめる低い声。
胸がどくりと跳ねた。
「……はい、ジャック様」
小さく返事をする。
家族に会えるのは嬉しい。
本当に嬉しいはずなのに、少しだけ胸が寂しい。
そんな自分に気づいて、エレナはわずかに俯いた。
その様子を満足げに見つめるジャック。
周囲では。
副官ハインリヒがこめかみを押さえ、騎士たちは必死に視線を逸らしている。
レオンハルトはあからさまに視線を逸らし黙り込み、マリアは気配を殺し空気になりきる。
「……団長、ここは執務室です」
ぼそりと漏れる呟き。
誰もが思っていた。
――砂糖を吐きそうだ、と。
騎士団執務室は、いつもの日常が流れていた。




