プロローグ:終焉にして始まり
(?視点)
ルーメンシュタット魔道皇国王宮、皇帝私室。
歴代皇帝の魔力が幾重にも刻み込まれた黒曜の壁は、淡く蒼い光を帯び、天井高く伸びる柱には古代魔法陣が彫り込まれている。
夜を閉じ込めたような深い紺の天蓋が垂れ、静かに威光を放っていた。
この国の頂点。
大陸最強の魔道皇帝のみが足を踏み入れることを許された、絶対の領域。
その中心で――
長い黒髪を床に広げた男が、息絶えようとしていた。
白い石床に、赤が広がる。
「……ゴフッ」
込み上げた血が喉を裂き、唇の端から零れ落ちる。
鉄の匂いが、荘厳な空間を侵していく。
霞む視界の先に、二つの影。
血を分けながらも、決して心を交わすことのなかった異母弟と、
未来の皇后となるはずだった婚約者。
二人は、倒れ伏す男を見下ろしている。
「すまない……兄さんさえいなければ、皆幸せになれるんだ」
震える声。
だが、握られた短剣には容赦がなかった。
刃が振り下ろされる。
肉を裂く鈍い音が、静まり返った私室に響く。
一度。
また一度。
血が飛び散り、黒曜の床を汚していく。
「……ごめんなさい、ごめんなさい」
婚約者は泣いていた。
肩を震わせ、涙を零しながら。
「彼を愛してしまったの……」
か細い声が、懺悔のように落ちる。
「彼と幸せになるには、これしかないの」
その手で、毒を盛っておきながら。
体内を巡る冷たい痺れ。
毒の効果か、大陸最強と謳われた魔力は急速に衰えていく。
体内を巡る力の奔流が、砂のように指の隙間から零れ落ちていく感覚。
身体は痺れ、指先ひとつ動かせない。
その隙を突くように、扉が荒々しく開かれた。
重厚な私室へ踏み込んできたのは、異母弟――第二皇子付きの近衛騎士達。
甲冑の擦れる音が、神聖なる空間を無遠慮に踏み荒らす。
――ここまで、手を回していたか。
視線だけを巡らせる。
謝り続けていた二人の口元が、ほんのわずかに歪んでいるのが見えた。
涙の奥に隠しきれない、安堵と達成の色。
――人の皮を被りし獣どもが、己の欲を満たすか。
怒りはない。
だが、胸の奥が、冷たい。
……これは、悲しいのか。
初めて自覚した感情が、ひどく空虚だった。
生まれ持った膨大な魔力ゆえに父王に恐れられ、
幽閉同然で生かされ続けた幼少期。
急死した父王に代わり、望まぬまま玉座に座った。
帝冠は重く、誰も隣に立とうとはしなかった。
それでも国を守ったつもりだったが――
――やはり、人とは裏切るもの。
この面白くもない人生を終えるのなら、
せめて――ここ以外が良い。
静かに、残された魔力へ意識を沈める。
砕け散ったはずの力の残滓を、無理やり掻き集める。
血が逆流し、視界が白く染まる。
それでも構わない。
――奴らの思惑通りに、ここで終わるつもりはない。
床に刻まれた古代魔法陣が微かに応じる。
空間が、軋んだ。
「……っ。まだそんな力が残っていたか!」
弟の声が、初めて恐怖を帯びる。
「逃すな!」
近衛騎士達が駆け寄る気配。
だが、遅い。
歪みは一気に広がり、私室の空気が裂ける。
白光がすべてを覆い尽くした。
次の瞬間。
そこにあったのは、血に濡れた床と、崩れ落ちた静寂だけ。
男の姿は、どこにもなかった。
*
――こうして彼は、見知らぬ土地へと転移した。
それは終焉ではない。
彼の運命は、ここから始まる。




