番外編 第一話:差し入れと連行
初夏の風が王宮の回廊をすり抜けていく。
直轄領の復興は順調。エレナの仕事にも、ようやく余裕が生まれていた。
そんなある日――
騎士団執務室の扉が開いた瞬間、空気が一変した。
「差し入れを持ってきました!」
籠いっぱいの焼き菓子と軽食を抱えたエレナと侍女マリア。
エレナがぱっと花の様な笑顔を咲かせる。
一瞬の沈黙のあと。
「エレナ嬢だ!!」
「差し入れだぞ!!」
「勝った!!」
執務室が歓声に包まれた。
書類と剣に囲まれた男たちの顔が、一斉に緩む。
疲労の色が残っていた空気は、あっという間に和やかなものへと変わった。
その光景を、少し離れた位置から静かに見ている人物がいる。
騎士団長ジャック・フォン・ヴィッテルスバッハ。
王弟殿下は、腕を組み、露骨に不機嫌だった。
(……俺の婚約者だぞ)
視線は、団員に囲まれて笑うエレナに固定されている。
そして、その輪の中に――
当然のように混ざっている人物が一人。
「これは助かります。ちょうど甘いものが欲しかったところでした」
にこやかに焼き菓子を手に取る王太子レオンハルト。
完全に自然体。完全に馴染んでいる。
ジャックの眉間の皺が深くなった。
「王太子殿下、ここ騎士団執務室ですけど」
「王族の執務もここで行われることがあるから問題ないよ」
副官ハインリヒが無表情で突っ込み、レオンハルトが爽やかに返す。
その様子を見て、騎士団員たちが小さく頷いた。
マリアが静かに一言。
「今日も通常運転ですね」
全員が同意した。
――ジャック以外。
*
ほのぼのとした雰囲気の中、団員の一人が、少し遠慮がちに口を開いた。
「ご無事でよかったです、エレナ嬢。直轄領の件、皆心配しておりました」
「はい。もう元気です。ご心配おかけしました」
にこりと笑って答える。
けれど次の瞬間、エレナはふっと遠い目になった。
「女性の嫉妬って怖いですよねぇ……」
執務室の空気がほんの少しだけ凍る。
エレナはふと気づく。
(あ、これ二回目だ)
脳裏に蘇る、アマンダによる誘拐事件。
さらに止まらない思考。
(ジャック様って結婚したい男No.2だったよね)
(また誘拐とかされそう)
(怖い)
(嫌だ)
そして――口が勝手に動いた。
「……婚約、失敗したかなぁ」
執務室の時間が止まった。
本当に、比喩ではなく止まった。
騎士団員たちは固まったまま瞬きすらしない。
副官ハインリヒは書類を持った姿勢で石像と化している。
侍女マリアだけが、深いため息をついていた。
――完全に呆れ顔である。
そして。
レオンハルトは小さく、誰にも気付かれないように拳を握った。
一方。
ジャックは。
瞳孔がわずかに開いていた。
その変化に気付いた騎士団員たちの背筋が一斉に凍り付く。
(終わった)
誰も声に出せない叫びが胸の中で炸裂する。
――エレナ嬢、逃げてーーーー!!
沈黙の中心で、ジャックが静かに目を細めた。
「なるほど。足りないか」
小さく頷く。
「君がまだ逃げられると思っていたとは」
優しく笑った。
「反省しよう」
――怖い。
その場にいた全員の心が、完璧に一致した瞬間だった。
エレナだけが状況についていけず、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「え? えっと……ジャック様?」
次の瞬間。
視界がふわりと浮いた。
「きゃっ!?」
気づけば、ジャックの腕の中だった。
迷いのない動き。完全な流れ作業。お姫様抱っこである。
「ちょ、ちょっと!? 降ろして下さい!」
慌てて暴れるエレナの耳元へ、甘い声が落ちる。
「大丈夫だ。心配する必要はない」
低く囁く声は、優しくて――逃げ場がない。
「君が後悔する暇など、これから与えない」
「後悔って何の話ですか!? 怖い怖い怖い!!」
必死に周囲へ手を伸ばす。
「た、助けてください!!」
騎士団員たちと目が合う。その瞬間一斉に目をそらされた。
石像のように固まったまま、全員の心の声だけが一致した。
(ごめんなさい、無理です)
「では、少し話し合おう」
ジャックは満足げに微笑むと、そのまま堂々と執務室を出ていった。
「は、話し合いって何ですかーーー!?」
扉の向こうへ消えていく悲鳴。
静寂。
残された面々は、しばし無言だった。
マリアが深いため息をつく。
「自業自得ですよ、お嬢様」
レオンハルトが小さく舌打ちする。
「……チッ」
レオンハルトの傍にいたハインリヒは必死に気づかないふりをした。
「俺は何もみてない……聞いてない……」
誰もが自然と仕事に戻る。
――そして今日も。
王宮は平和だった。
*
扉が閉まる音が、やけに遠く響いた。
気づけばエレナは、王宮内王弟の私室のソファへと下ろされていた。
「……あの」
恐る恐る顔を上げる。
ジャックは目の前に立ったまま、逃げ道を塞ぐように腕を組んでいる。
にこやかに微笑んでいるのに――
背筋がぞくりとした。
「婚約、失敗?」
低く繰り返される。
「えっ、あの、それは、その……」
「もう一度聞こうか」
逃げ場、完全消失。
エレナの視線が泳ぐ。
壁、床、窓、天井。
どこにも助けはない。
「冗談です!!」
食い気味だった。
「冗談?」
「はい!! 冗談です!!」
ジャックは一歩近づいた。
逃げようと後ずさるエレナ。
だがすぐ背後にソファ。
逃げ場なし。
「君は時々、爆弾を落とすな」
ため息混じりに呟き、ゆっくりと腰を下ろす。
距離が近い。近すぎる。
「俺がどれだけ焦ったと思う?」
声は穏やか。
でも指先がエレナの髪に触れた瞬間、空気が変わった。
優しく、撫でる。
「また攫われるかもしれないと考えた」
耳元で囁かれる。
「君が離れる未来を想像した」
指が頬へ滑る。
「正気でいられると思うか?」
エレナの呼吸が止まる。
「……思いません」
小さく答えると、ジャックは満足そうに笑った。
「だろう?」
そのまま頬に口づけが落ちる。
「安心しろ」
低く、甘く、逃げ場のない声。
「お前が迷う余地なんて、もう残さない」
そっと抱き寄せられる。
「俺が全部、塗り替えてやる」
エレナの心臓がうるさい。
(これ逃げられないやつだ)
腕の中で観念したように小さく息を吐くと、
ジャックは満足そうに目を細めた。
「まずは――」
囁き。
「俺といて、後悔する時間なんてないくらい幸せにしてやる」
エレナ、完全包囲完了。
そして騎士団執務室。
レオンハルトがくしゃみをした。
「……今、叔父上が怖い顔をしている気がする」
王宮は、やっぱり平和だった。




