第二十話:月下の秘薬
夜の街道を、護送用の馬車が静かに走っていた。
雲の切れ間から零れた月明かりが、銀色の帯のように道を照らしている。
規則正しく響く車輪の音と、騎士たちの馬の蹄だけが夜を切り裂いていた。
その車内で、クララは身を折るようにして座っていた。
「……っ、ぁ……」
揺れのたびに喉から小さな呻きが漏れる。
鞭打たれた背が、衣服に擦れるだけで焼けるように痛んだ。
だが、その痛みすら――怒りの炎を消すことはできない。
暗闇の中、彼女の瞳だけが異様に光っていた。
「……あの女のせいよ……」
歯の隙間から、憎悪が滲み出る。
すべてを奪われた。
地位も、未来も、王弟の隣という座も。
頭の中に浮かぶのは、あの女の顔。
蒼と薄紫の瞳で、まっすぐ前を向く女。
クララの爪が、ぎり、と膝の上で食い込んだ。
「見ていなさい……エレナ……」
声は低く、震えている。
恐怖ではない。憎しみと執念の震えだった。
「終わったと思わないことね……」
馬車が大きく揺れる。背中に痛みが走る。
それでも、唇に浮かぶのは歪んだ笑み。
「まだ……終わっていないわ」
このまま修道院に閉じ込められて終わる?
そんなはずがない。
脳裏に浮かぶのは、領地の人間たちの顔。
家に忠誠を誓ってきた者たち。
恩を受け、借りを感じている者たち。
「まだ領内には……私の味方がいる……」
確信めいた囁きが、闇に溶けた。
機会さえあればいい。
ほんの一度、隙が生まれれば。
その瞬間、すべてを取り戻せる。
「必ず……復讐してやる」
低く、確かに言い切る。
月光が窓から差し込み、彼女の瞳を淡く照らした。
そこに宿っていたのは――消えることのない執念だった。
*
不意に、馬車が大きく揺れて止まった。
車輪の音が途切れ、夜の静寂が戻ってくる。
「……なに?」
クララが顔を上げた瞬間、扉が乱暴に開かれた。
「降りろ」
短く命じた騎士の声は、情けの欠片もない。
腕を掴まれ、半ば引きずられるように外へ降ろされる。
冷たい夜気が肌を刺した。
月が高く昇り、街道を淡く照らしている。
その光の中に――一人の男が立っていた。
金の髪が月光を受け、静かに揺れる。
王太子レオンハルト。
「やあ、いい夜だね。クララ」
柔らかな笑顔だった。
まるで夜の散歩で偶然出会ったかのような、穏やかな挨拶。
あまりにも場違いなその声音に、クララの背筋がぞくりと冷える。
「……なぜ、ここに」
「叔父上からの贈り物を届けに来たんだ」
何でもないことのように言う。
「ほんの気まぐれさ」
その言葉の軽さが、かえって不気味だった。
胸の奥が警鐘を鳴らす。
じり、とクララは後ずさった。
「……近寄らないで」
だが次の瞬間、背後の騎士たちが一斉に動いた。
両腕をねじ上げられ、体を押さえつけられる。
「なっ、離しなさい!!」
必死にもがくが、逃れられない。
小さな硝子瓶が視界に入った。
「やめ――」
言葉が終わる前に、口を無理やり開かされる。
冷たい液体が喉へ流し込まれた。
「何を……飲ませたの!?」
激しく咳き込みながら叫ぶクララ。
その様子を、レオンハルトは穏やかに見下ろしていた。
「王家の秘薬でね」
柔らかな声だった。
「君には穏やかに生きてもらいたいんだ」
「意識を鎮める薬だよ。修道院で従順に過ごせるようにね」
さらりと告げられた言葉に、クララの背筋が凍りつく。
「ふざけないで……そんなこと――」
叫びかけた瞬間。
レオンハルトの表情が、すっと消えた。
笑みは跡形もなく消え去り、能面のように冷たい顔が現れる。
感情の温度が、一瞬で零度まで落ちた。
「君は王家の『至宝』に手を出した」
静かな声だった。
だが、その一言は刃より鋭い。
「万が一があっては困るんだよ」
その意味を理解した瞬間、クララの瞳が見開かれる。
「……至宝……?」
次の瞬間、憎悪が爆ぜた。
「エレナのこと!?」
叫び声が夜を裂く。
「あんな女に、そんな価値があるものか!!」
激昂するクララを、レオンハルトは無表情のまま見つめていた。
やがて、わずかに口元が歪む。
「やはり、飲ませて正解だったね」
淡々とした声。
「エレナ嬢の知識は、この国を百年先へ押し上げる価値があると言われている」
さらりと続けられる機密。
「……もっとも、知っているのはごく一部の人間だけだけれど」
国家の未来に関わる秘密を、まるで世間話のように口にする。
クララの呼吸が乱れる。
視界が揺れ始めていた。
それでも、憎悪だけは消えなかった。
言い返そうと口を開いたはずだった。
だが、言葉は喉の奥で崩れた。
「……ぁ……」
舌が重い。視界が揺れる。足元が地面から切り離されたように頼りない。
膝が折れ、クララは崩れ落ちた。腕に力が入らない。指先すら思うように動かない。
薬が、確実に身体を侵していた。
「効き始めたようだね」
感情のない声が、頭上から落ちる。
クララは睨み上げようとした。だが焦点は合わず、世界は滲んだ光の塊に変わっていく。
悔しさも、憎しみも、叫びも――心の奥に沈んでいくのに、意識だけは消えない。
騎士たちが無言で彼女を抱え上げた。
「その女を修道院へ届けたら、影の任務に戻っていい。ご苦労様」
短い命令。
騎士たちは一斉に一礼し、抵抗すらできないクララを馬車へ運び込む。
扉が閉じられた。
車輪が再び回り始め、闇夜の街道を走り出す。
クララの意識は薄れていくのに、思考は消えず、ただ何もできないまま閉じ込められていった。
*
遠ざかる馬車を、レオンハルトは無感動な眼差しで見送っていた。
冷たい月光が、感情を削ぎ落とした横顔を鋭く照らしていた。
「まこと、叔父上は恐ろしい……」
ぽつりと呟く。
「僕も見習わないとね」
唇がゆっくりと歪んだ。
夜の静寂の中、その笑みだけが冷たく浮かぶ。
そのすべてを、夜空の月だけが静かに見下ろしていた。




