第十六話:雷光の英雄
轟音。
空間そのものが震えた。
次の瞬間、男の一人が見えない衝撃に弾き飛ばされ、石壁へ叩きつけられる。
剣は振られていない。触れてすらいない。
ただ、圧倒的なマナの奔流が通り過ぎただけだった。
誰も何が起きたのか理解できなかった。
遅れて、雷鳴のような声が落ちる。
「――――エレナに触れるな」
月光の下に立つ影。
王国最強の騎士団長にして英雄、王弟ジャック。
静かな怒りを宿した碧の眼が、群衆を見渡す。
その周囲の空気が、淡く揺らめいていた。
濃密なマナが刃のように満ちている。
その一歩で空気が変わった。
破落戸たちが本能で後退する。
「全員、生きては帰さん」
静かな宣告。
剣が抜かれた瞬間、世界が遅くなる。
青白い光が刃を包んだ。
最前列の男が突進する。
だが刃が振り下ろされるより先に、衝撃波が男を弾き飛ばした。
一閃。
数歩遅れて崩れ落ちる敵。
血はほとんど飛ばない。斬撃は完璧に急所だけを断っていた。
二人、三人、四人。
ジャックの動きは雷光だった。
無駄が無く、静かで、圧倒的。
踏み込みと同時にマナが爆ぜ、複数の敵が同時に吹き飛ぶ。
剣が触れた者だけが、音もなく崩れ落ちていく。
横から斧が迫る。
身体を沈める。
刹那、柄を蹴り上げ武器を弾き飛ばす。
そのまま一閃。男は崩れた。
返り血は一滴も付かない。
斬撃はすべて制御されていた。
「ば、化け物……!」
恐怖が連鎖する。
だが逃げ場は無い。
雷光の剣は、静かにすべてを制圧していく。
リヒトの目が見開かれる。
「あれは……王弟?」
低く呟いた声に、確信が混じる。
戦場の中心で剣を振るう男を見つめながら、乾いた笑いが喉の奥から漏れた。
「……そういう事かよ」
視線がゆっくりとエレナへ向かう。
王弟が、あの声に応えて現れた。
彼女の名を呼ぶ声に。
(最初から勝ち目なんてねぇじゃねぇか)
胸の奥に小さな痛みが走ったが、今はそれどころではない。
その時、背後から柔らかな声が響いた。
「もう大丈夫ですよ、エレナ嬢」
エレナが振り向いた瞬間、温かな外套が肩を包み込んだ。
レオンハルトだった。
優しい碧の瞳が、傷ついた彼女を静かに見つめている。
「寒くありませんか」
その声音は驚くほど穏やかだった。
まるでこの地獄のような路地にいること自体が不自然であるかのように。
彼は周囲へ静かに視線を走らせる。
すでに到着していた騎士達が、無言のままエレナの周囲に壁を作っていた。
「騎士達があなたを守ります。どうかご安心を。もう少しだけ、お待ちくださいね」
その微笑は柔らかい。
「……あの青年の助太刀に行ってきます」
穏やかな声のまま、彼は振り返る。
その一歩が地面に触れた瞬間、空気が弾け飛んだ。
次の瞬間、姿が消える。
石畳が爆ぜ、遅れて衝撃だけが走った。
リヒトへ迫っていた男が横へ吹き飛んだ。
空気を殴りつけたかのような衝撃。
砂塵が弾け、視界が白く染まる。
「――少し遅れましたね。助太刀に入ってもよろしいですか」
落ち着いた声に、リヒトは剣を振り抜いた姿勢のまま視線だけを向けた。
そこに立っていたのは、静かな威圧感を纏う青年――王太子レオンハルト。
その指先には、まだ微かに魔力の残光が揺れている。
「……名乗りも無しに助太刀とは、随分と大胆だな」
背後から迫った敵が刃を振り下ろす。
振り下ろされた瞬間、刃の軌道が歪んだ。
見えない圧力が腕ごと叩き潰し、骨の砕ける音が夜に響く。
「失礼。名乗る余裕がある状況では無さそうでしたので」
レオンハルトが軽く手を振る。
その動きに合わせ、空間が軋んだ。
石畳が陥没し、足場を失った敵が雪崩のように崩れる。
その隙へ、リヒトが滑り込んだ。
刃が閃く。
喉元、手首、膝。
最短距離だけを切り裂く冷徹な剣。
血飛沫が弧を描くより先に、男たちは崩れ落ちていた。
「お怪我はありませんか」
リヒトは一瞬だけ眉を動かす。
迫る男の懐へ踏み込み、肘打ちで鳩尾を打ち抜く。
肺から空気が吐き出され、男は崩れた。
「……あぁ。まさか嬢ちゃんの知り合いがこんな大物とはな」
背後から槍が突き出される。
穂先が、空中で止まった。
見えない力が軌道を縫い止めている。
次の瞬間、槍ごと男が壁へ叩きつけられた。
「僕も驚きましたよ、彼女が危険地域の支配者リヒト殿と共にいるとはね」
短い沈黙。
互いの立場も目的も違う。
だが、守るべきものが同じだと理解するには十分だった。
怒号が迫る。
数人が同時に突撃する。
剣と魔法が、同時に閃いた。
閃光。
衝撃。
次の瞬間には、敵がまとめて宙を舞っていた。
地面へ叩きつけられる音が連続して響く。
リヒトは視線を戦場の中心へ見やる。
刃の嵐の中心。
圧倒的な存在。
「しかしあいつ……化け物だな……」
本音だった。
それはもはや人の動きではなかった。
剣が閃くたび、敵は声すら上げる暇なく崩れ落ちる。
血飛沫は嵐のように舞うのに、王弟の衣はただの一滴も触れさせない。
「叔父上は伊達に英雄と呼ばれている訳ではありません」
レオンハルトは楽しげに微笑んだ。
「むしろ、本気になった叔父上を見られるのは貴重です」
数分後。
路地は静寂に包まれた。
破落戸は一人残らず地に伏している。
剣を収めたジャックが振り返る。
その瞬間。
ジャックの表情が崩れた。
張り詰めていた仮面が砕け、ただ一人の男の顔になる。
次の瞬間には走り出していた。
躊躇も、周囲も、すべてを置き去りにして。
「エレナ!」
名を呼ぶ声は、叫びに近かった。
抱き寄せられた瞬間、エレナの世界が揺れる。
力強い腕が、壊れ物を扱うように、けれど必死に抱きしめてくる。
震えていた。
彼の腕が。
呼吸が。
鼓動が。
「……会いたかった」
胸に押し付けられた声は掠れていた。
その一言に、胸がいっぱいになる。
守られている。
求められている。
愛されていることを、全身で理解してしまう。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
涙が溢れた。
止まらない。
「無事で良かった……」
低く落ちる声は、明らかに震えていた。
普段決して揺るがない人の声が。
「エレナ……エレナ……」
何度も名前を呼ぶ。
確かめるように。
失っていないと、繰り返し言い聞かせるように。
その声を聞くたび、胸の奥が熱くなる。
(助けに来てくれた)
嬉しくて、愛おしくて、苦しいほど満たされる。
腕に力を込め、エレナも彼にしがみついた。
「……ジャックさま」
震える声で名を呼ぶ。
それだけで、もう言葉はいらなかった。
その光景を、少し離れた場所から見つめる影があった。
リヒトは小さく息を吐く。
胸の奥の熱が、静かに形を変えていく。
「女神には……英雄がつきものだよな……」
自嘲の笑み。
その横で、レオンハルトが静かに彼を見る。
哀れむような、優しい眼差しだった。




