第十四話:仕組まれた迷路(前編)
時は少し遡るーー。
視察は、緊張感を孕みながらも静かに進んでいた。
崩れた石壁の影、割れた窓から吹き込む乾いた風。南東区域は、復興が進み始めた地区とは明らかに空気が違っていた。
その最中だった。
一人の騎士が、早足でジャックのもとへ駆け寄る。
「王弟殿下。至急の案件です」
低く抑えた声だったが、その緊迫は隠しきれない。
差し出された書状に、ジャックの視線が落ちる。
王都からの緊急連絡。
内容を追った瞬間、彼の目がわずかに細められた。
(このタイミングで?)
胸の奥に、言葉にできない違和感が生まれる。
だが無視できる内容ではない。
ほんの数秒の沈黙の後、ジャックは静かに書状を畳んだ。
「……急ぎ戻る」
短く告げる。
隣にいたレオンハルトへ視線を向けた。
「護衛指揮は任せる」
それは信頼を前提とした言葉だった。
レオンハルトは頷く。
「はい。こちらは任せて下さい」
その返答を聞き、ジャックは一度だけ周囲を見渡した。
エレナの姿が視界に入る。
視察対象の建物に意識を向け、真剣な表情で話を聞いている。
ほんの一瞬、視線が止まった。
胸の奥に残る違和感が、消えない。
それでも――
王弟としての責務が優先される。
「すぐ戻る」
誰に向けたとも分からないほど小さく呟き、踵を返した。
最大の盾が、静かにその場を離れていった。
*
ジャックが去った直後だった。
護衛騎士の一人が、王太子レオンハルトのもとへ駆け寄る。
「殿下、視察経路に問題が発生しました」
低い声での報告。
地図が広げられ、別経路の安全確認が必要だと告げられる。
本来であれば王弟が判断すべき案件。
だが今、その場にいる最高責任者はレオンハルトだった。
「……分かった。人員を割け」
短い指示。
数名の騎士が即座に動き出す。
その結果、護衛の密度が――ほんのわずかに、だが確実に薄くなった。
その瞬間。
クララの唇が、微かに弧を描いた。
誰にも気づかれないほど小さな動き。
だが確かに、視線が流れる。
案内役へ。 そして、子爵家に属する騎士へ。
無言の合図だった。
「こちらが近道になります」
穏やかな声で案内役が告げる。
「復興区域へ最短で向かえますので」
疑う理由はなかった。
視察の効率化。 現地案内役の提案。 そして、同行する騎士の存在。
「分かりました」
エレナは迷いなく頷いた。
護衛の一部が別方向へ移動していることにも、 その“わずかな空白”にも気づかぬまま。
静かに歩き出す。
仕組まれた道を。
罠だと知らずに。
――誘導は、成功していた。
しばらく後――。
穏やかだった視察の空気を裂くように、鋭い声が響いた。
「エレナ様がいません!」
クララだった。
その言葉は瞬く間に周囲へ広がり、現場の空気が一変する。
ざわめきが波のように広がり、騎士たちが一斉に周囲を見渡した。
「何だと……?」
レオンハルトが振り向く。
先ほどまで確かに視界に入っていたはずの姿が、どこにもない。
胸の奥が嫌な音を立てる。
「いつからだ!」
騎士たちが慌ただしく周囲へ散っていく。
呼び声が飛び交い、足音が石畳を打ち鳴らす。
だが――返事はない。
「全員、捜索だ! 直ちに――」
命令を発しかけた、その時だった。
背後の影が、音もなく揺れた。
人目のない岩陰。
そこへ滑り込むように現れた“影”。
王家直属の監視。
影は膝をつき、短く告げた。
「報告。監視魔法が途切れました」
一瞬、意味を理解できなかった。
レオンハルトの思考が停止する。
「……何?」
低く問い返す。
影は繰り返した。
「エレナ様に付与していた追跡・護衛監視術式。数分前に完全消失を確認」
静寂が落ちた。
風の音だけが遠くで鳴っている。
レオンハルトの喉がゆっくりと動いた。
「そんな馬鹿な……」
王家の監視魔法。
それは並の魔術師が干渉できるものではない。
切断など――あり得ない。
あり得ないはずだった。
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
これは事故ではない。
偶然でもない。
意図的に破られた。
王家の目が――欺かれた。
レオンハルトの瞳から温度が消える。
「……捜索隊を編成する。全域だ。隠すな。全部動かせ」
その声には、すでに確信が滲んでいた。
これは単なる失踪ではない。
騎士たちは即座に動き出し、周囲の空気が緊急事態へと切り替わる。
連絡役が走り出し、伝令が飛び、魔術師たちが術式の再展開を始めた。
王家の捜索網が、一斉に動き出す。
「王弟殿下へ至急連絡を」
その言葉が落ちた瞬間、場の緊張はさらに一段階上がった。
最大の盾を呼び戻すしかない。
その時だった。
崩れるように膝をつく音がした。
「エレナ様が……っ」
クララが泣き崩れていた。
震える肩。
顔を覆う両手。
「私、お止めしたのですが……好奇心を抑えられなかったようで……」
嗚咽混じりの声。
だがその言葉は、確かに含んでいた。
――彼女自身の責任ではない、と。
レオンハルトの瞳が一瞬だけ細くなる。
だが、何も言わない。
今はまだ。
怒りは、飲み込む。
証拠が揃うまで。
「……王弟殿下が戻られる。準備を整えろ」
短く告げる声は、冷え切っていた。




