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第十三話:救いの名を呼ぶ声


リヒトはゆっくりと瓦礫から姿を現した。


黒衣の裾が風に揺れ、周囲の空気がわずかに張り詰める。


「この辺りに迷い込んだ貴族は、大抵長生きしない」


低く落ち着いた声だった。


だがその言葉の奥に、明確な警告が滲んでいる。


エレナは立ち上がり、彼をまっすぐ見つめた。


涙の名残を宿した瞳は、それでも揺れていない。


「あなたは……この地域の方ですか?」


「方、か」


リヒトは小さく笑った。


「まあ、間違いじゃない。この辺りは俺の縄張りだ」


一瞬の沈黙。


その意味がゆっくりと胸に落ちる。


危険地域の支配者。


それが目の前の青年。


護衛もいない今、本来なら恐怖する場面だった。


だがエレナは一歩も退かなかった。


「なら、お願いがあります」


リヒトの眉がわずかに動く。


「この地域を、変えたいのです」


即座に返ってきたのは、乾いた笑いだった。


「はは……貴族は皆そう言う。慈善だの改革だの。だが数日で消える」


冷たい言葉。


経験から来る断定。


「ここは綺麗事で変わる場所じゃない」


それでもエレナは目を逸らさなかった。


「それでも変えたいんです」


声は静かだったが、確かな熱が宿っている。


「子どもが傷つく場所を、無くしたい」


その言葉に、リヒトの視線が揺れた。


先ほどの少年の背中が脳裏に浮かぶ。


エレナは一歩踏み出した。


「あなたが協力してくださるなら、きっとうまくいく」


蒼と薄紫の瞳が、真正面から彼を射抜いた。


先ほどまで祈りに震えていた少女とは別人のような強さ。


儚さと意志が同時に存在する矛盾。


胸が、強く打つ。


(この感情は何だ)


理性が警鐘を鳴らす。


関わるべきではない。


近づけば人生が変わる。


だが――目が離せない。


この街を生き抜いてきた直感が告げている。


この女は本物だ。


「……あんた」


気づけば口が動いていた。


「いいな」


小さく笑う。


それは、これまで誰にも向けたことのない表情だった。


「私には変える力があります、何故なら――――」


言いかけた言葉は、砂利を踏み砕く無数の足音にかき消された。


振り返った瞬間、エレナとリヒトは数十人の破落戸に取り囲まれていた。


粗野な笑い声。錆びた刃。濁った視線。


「へぇ……本当に居たぜ」 「噂の貴族様だ」 「上玉じゃねぇか」


彼らは最近他国から流れ着いた無法者。リヒトの支配の及ばぬ、秩序を持たない獣の群れだった。


「その女を置いていけよ、王様気取り」


下卑た笑いが路地に満ちる。


「面倒だな……下がっていろ」


リヒトが低く呟く。


次の瞬間、剣が抜かれた。


鋼が月光を裂いた。


最初の男の腕が宙を舞う。悲鳴が上がる前に二人目の喉元へ回し蹴り。骨の砕ける音が夜気に響いた。


リヒトは強い。 この地域で生き延び、支配者と呼ばれるまでになった男だ。 一人一人なら問題にならない。


だが、敵は多すぎた。


背後から鉄棒が振り下ろされる。


リヒトは反転し受け止めるが、横から三人が同時に襲いかかる。


刃が肩をかすめ、血が飛ぶ。


「ちっ……!」


数で押し潰す戦法。


一人を倒しても次が来る。次が来る。終わらない波。


初めて、明確な焦りが滲んだ。


その時だった。


離れた位置で最後の一人を斬り伏せたリヒトが、弾かれたように顔を上げる。


視界の先――エレナの元へ、新たな男たちが雪崩れ込んでいた。


「待て……っ!」


踏み出そうとした瞬間、背後から数人が一斉に飛びかかる。


腕を絡め取られ、刃が喉元へ突きつけられる。


振り払おうとすれば、さらに三人、四人と押し寄せる。


距離はほんの数十歩。


それなのに――届かない。


歯噛みする。


(間に合わない……!)


その隙を突かれた。


背後から伸びた腕に引き倒され、エレナの身体が石畳へ叩きつけられる。


背中に激痛が走り、息が詰まった。


視界が揺れる。


布が引き裂かれる乾いた音が、夜の路地に残酷に響いた。


冷たい地面に押し倒され、細い指が必死に地面を掻く。 逃げようとしても、力が入らない。


「いや……やめて……っ」


震えた声は自分でも驚くほど弱かった。

息が浅くなり、胸が痛いほど早く上下する。


視界の端で、男たちの影がゆっくりと迫る。

にやついた口元。

値踏みするような視線。


怖い。

どうしようもなく、怖い。


助けてくれる人はいない。

ここは誰も来ない場所。


理解した瞬間、心が折れそうになる。


それでも――


震える唇が、必死に一つの名を紡いだ。


「……助けて……ジャックさま……」


縋るような祈り。

壊れてしまいそうなほど小さな声だった。




路地の空気が変わった。



――圧が降りた。


男たちが一斉に振り向く。


入口に立つ影。


月明かりの中、ゆっくりと歩いてくる男。


怒りを纏った王弟が、そこにいた。


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