表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/75

第十二話:女神の祈りと危険地域の支配者


危険地域視察の日。空は灰色の雲に覆われ、王都の南東区画は朝から重苦しい空気に包まれていた。


「……これが、危険地域」


エレナは息を呑む。資料で知ってはいた。だが、目の前に広がる現実は想像を遥かに超えていた。


案内役の男は、にこやかな笑みを崩さぬまま言った。


「こちらが近道でございます」


疑う理由など、エレナにはなかった。


案内人が示した道を、ただ素直に辿っただけだった。


――けれど。


一歩進むごとに、更に空気が変わっていく。


石畳は途切れ、土の道へ。


建物は崩れ、壁は黒ずみ、窓は割れたまま。


人影はあるのに、誰も目を合わせようとしない。


振り返ったとき、案内役の姿はもうなかった。


「……あれ?」


朽ちた柵で封鎖された区域。赤い紋章の看板が、無機質に立っている。


――立入禁止最奥区域。


言葉を失った瞬間。


静寂だけが残る。


遅れて理解が追いつく。


置き去りにされたのだと。


胸がざわつく。だが恐怖より先に、視界に入った光景がエレナの足を止めた。


壁にもたれかかる子ども。地面に座り込む子ども。誰もが痩せ細り、虚ろな目をしている。


笑い声がない。泣き声すらない。ただ、生きているだけの静寂。


「こんな場所が……領地に……」


胸が締め付けられる。


エレナは、争いも飢えもない世界で育った記憶がある。子どもが笑い、母が子を抱きしめ、明日が当然のように訪れる世界。それが当たり前だと信じていた。


だが今、目の前にあるのは――同じ王都の中に存在する、まるで別の現実。


同じ空の下で、こんなにも世界は残酷なのかと、息が詰まる。


(知らなかったでは済まされない)


(見てしまった以上、目を背けてはいけない)


胸の奥に静かに火が灯る。


(必ず変えてみせる……)



路地の角を曲がった瞬間、腐臭が鼻を刺した。


崩れかけた廃墟の奥。布に包まれた塊と、その傍らに蹲る小さな背中。


震える足で近づくと、少年が顔を上げた。翡翠色の瞳は飢えと恐怖で濁っている。


そのすぐ隣――青褪めた腕が布の隙間から覗いていた。


少年が、動かない女性にしがみついていた。


「お母さん……起きて……」


何度も揺さぶる。だが女性はもう動かない。


エレナの膝が崩れ落ちた。


胸の奥から、抗えない衝動が込み上げる。


(この子を……一人にしてはいけない)


子を残して逝く母の苦しみ。母を失う子の絶望。想像するだけで呼吸が苦しくなる。


「一緒に……お見送りをしましょう」


震える声で少年に語りかけた。


二人で土を掘り、女性を埋葬する。小さな手が震えながら土をかける姿に、胸が締め付けられた。


埋葬を終えた少年は、突然崩れ落ちた。嗚咽を押し殺す小さな背中。


エレナはゆっくりと跪き、泥に汚れることも厭わず胸の前で静かに手を組んだ。


白い指先が震え、薄く震える唇が祈りの言葉を紡ぐ。


「あなたの大切な人の安らかな旅立ちを」


その声音はかすかに掠れていたが、不思議なほど澄んでいて、荒れた路地の空気さえ柔らかく包み込んだ。


冷たい風が吹き抜け、淡い金の髪が揺れるたび、差し込んだ薄光が涙の粒をきらめかせる。


祈りの言葉は、荒んだ世界にほんの一瞬だけ静謐をもたらした。


少年の嗚咽が次第に大きくなる。


その震えに呼応するように、エレナの瞳からも大粒の涙が零れ落ちた。


頬を伝う雫は迷いなく地面へ落ち、まるでこの悲しみを分かち合う証のようだった。


(この世界には、あまりにも多くの悲しみが溢れている)



その時、背後から低い声が響いた。


「……こんな場所で祈る貴族がいるとはな」


振り返ると、黒衣の青年が立っていた。


鋭い黒褐色の瞳が、静かにエレナを見下ろしている。



リヒトは孤児の平民だ。


物心ついた頃には、この危険地域で生きていた。


暴力と理不尽が支配する世界。弱ければ奪われ、油断すれば死ぬ。


その現実の中で、彼は牙を剥き、生き延び、今ではこの地域でそれなりの立場にいる。


だからこそ、噂を聞いた時に浮かんだのは一つの結論だった。


「綺麗なお貴族様が迷い込んだ」


――排除するべきだ。


この場所に相応しくない存在は、混乱しか呼ばない。


それがこの街の常識だった。


だが、瓦礫の陰から見た光景が、その思考を粉々に砕いた。


控えめな装飾ながら、布地の質だけで身分が知れる上質なドレス。


本来なら泥に触れることすら許されない衣装。


それが、躊躇いもなく汚れていく。


少女は気にも留めず、冷たくなった女性の亡骸の前に跪いていた。


孤児の少年に寄り添い、震える手で祈りを捧げている。


演技ではない。施しでもない。同情を見せるための仕草でもない。


ただ、心から悲しんでいた。


その事実に、リヒトの思考が止まった。


祈りを捧げる横顔に、雲の切れ間から細い斜陽が差し込む。


白金の髪が淡く輝き、涙に濡れた睫毛が静かに震えた。


(……言葉が出ない)


目が離せない。離れない。離したくない。


胸の奥が、焼けるように熱くなる。


こんな感情は知らない。欲望とも違う。怒りとも違う。


もっと深くて、危うくて、抗えない何か。


(美しい)


言葉が、勝手に浮かんだ。


掃き溜めの中で生死を繰り返してきた人生で、こんな感情を抱いたことは一度もない。


泥にまみれた世界の中で、そこだけが別の光を放っている。


眩しい。痛い。目を逸らしたいのに、逸らせない。


慈悲の女神がいるのなら――きっとこのような姿をしているのだろう。


胸の奥で、何かが決定的に変わる音がした。


排除するはずだった。近づくべきではない存在のはずだった。


それなのに。


――もっと見たい。


――もっと知りたい。


――この光を、失わせたくない。


自分でも理解できない衝動が、喉元まで込み上げる。


リヒトは感情を悟られまいと息を殺し、声を押し出した。


「……こんな場所で祈る貴族がいるとはな」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ