第十二話:女神の祈りと危険地域の支配者
危険地域視察の日。空は灰色の雲に覆われ、王都の南東区画は朝から重苦しい空気に包まれていた。
「……これが、危険地域」
エレナは息を呑む。資料で知ってはいた。だが、目の前に広がる現実は想像を遥かに超えていた。
案内役の男は、にこやかな笑みを崩さぬまま言った。
「こちらが近道でございます」
疑う理由など、エレナにはなかった。
案内人が示した道を、ただ素直に辿っただけだった。
――けれど。
一歩進むごとに、更に空気が変わっていく。
石畳は途切れ、土の道へ。
建物は崩れ、壁は黒ずみ、窓は割れたまま。
人影はあるのに、誰も目を合わせようとしない。
振り返ったとき、案内役の姿はもうなかった。
「……あれ?」
朽ちた柵で封鎖された区域。赤い紋章の看板が、無機質に立っている。
――立入禁止最奥区域。
言葉を失った瞬間。
静寂だけが残る。
遅れて理解が追いつく。
置き去りにされたのだと。
胸がざわつく。だが恐怖より先に、視界に入った光景がエレナの足を止めた。
壁にもたれかかる子ども。地面に座り込む子ども。誰もが痩せ細り、虚ろな目をしている。
笑い声がない。泣き声すらない。ただ、生きているだけの静寂。
「こんな場所が……領地に……」
胸が締め付けられる。
エレナは、争いも飢えもない世界で育った記憶がある。子どもが笑い、母が子を抱きしめ、明日が当然のように訪れる世界。それが当たり前だと信じていた。
だが今、目の前にあるのは――同じ王都の中に存在する、まるで別の現実。
同じ空の下で、こんなにも世界は残酷なのかと、息が詰まる。
(知らなかったでは済まされない)
(見てしまった以上、目を背けてはいけない)
胸の奥に静かに火が灯る。
(必ず変えてみせる……)
*
路地の角を曲がった瞬間、腐臭が鼻を刺した。
崩れかけた廃墟の奥。布に包まれた塊と、その傍らに蹲る小さな背中。
震える足で近づくと、少年が顔を上げた。翡翠色の瞳は飢えと恐怖で濁っている。
そのすぐ隣――青褪めた腕が布の隙間から覗いていた。
少年が、動かない女性にしがみついていた。
「お母さん……起きて……」
何度も揺さぶる。だが女性はもう動かない。
エレナの膝が崩れ落ちた。
胸の奥から、抗えない衝動が込み上げる。
(この子を……一人にしてはいけない)
子を残して逝く母の苦しみ。母を失う子の絶望。想像するだけで呼吸が苦しくなる。
「一緒に……お見送りをしましょう」
震える声で少年に語りかけた。
二人で土を掘り、女性を埋葬する。小さな手が震えながら土をかける姿に、胸が締め付けられた。
埋葬を終えた少年は、突然崩れ落ちた。嗚咽を押し殺す小さな背中。
エレナはゆっくりと跪き、泥に汚れることも厭わず胸の前で静かに手を組んだ。
白い指先が震え、薄く震える唇が祈りの言葉を紡ぐ。
「あなたの大切な人の安らかな旅立ちを」
その声音はかすかに掠れていたが、不思議なほど澄んでいて、荒れた路地の空気さえ柔らかく包み込んだ。
冷たい風が吹き抜け、淡い金の髪が揺れるたび、差し込んだ薄光が涙の粒をきらめかせる。
祈りの言葉は、荒んだ世界にほんの一瞬だけ静謐をもたらした。
少年の嗚咽が次第に大きくなる。
その震えに呼応するように、エレナの瞳からも大粒の涙が零れ落ちた。
頬を伝う雫は迷いなく地面へ落ち、まるでこの悲しみを分かち合う証のようだった。
(この世界には、あまりにも多くの悲しみが溢れている)
*
その時、背後から低い声が響いた。
「……こんな場所で祈る貴族がいるとはな」
振り返ると、黒衣の青年が立っていた。
鋭い黒褐色の瞳が、静かにエレナを見下ろしている。
*
リヒトは孤児の平民だ。
物心ついた頃には、この危険地域で生きていた。
暴力と理不尽が支配する世界。弱ければ奪われ、油断すれば死ぬ。
その現実の中で、彼は牙を剥き、生き延び、今ではこの地域でそれなりの立場にいる。
だからこそ、噂を聞いた時に浮かんだのは一つの結論だった。
「綺麗なお貴族様が迷い込んだ」
――排除するべきだ。
この場所に相応しくない存在は、混乱しか呼ばない。
それがこの街の常識だった。
だが、瓦礫の陰から見た光景が、その思考を粉々に砕いた。
控えめな装飾ながら、布地の質だけで身分が知れる上質なドレス。
本来なら泥に触れることすら許されない衣装。
それが、躊躇いもなく汚れていく。
少女は気にも留めず、冷たくなった女性の亡骸の前に跪いていた。
孤児の少年に寄り添い、震える手で祈りを捧げている。
演技ではない。施しでもない。同情を見せるための仕草でもない。
ただ、心から悲しんでいた。
その事実に、リヒトの思考が止まった。
祈りを捧げる横顔に、雲の切れ間から細い斜陽が差し込む。
白金の髪が淡く輝き、涙に濡れた睫毛が静かに震えた。
(……言葉が出ない)
目が離せない。離れない。離したくない。
胸の奥が、焼けるように熱くなる。
こんな感情は知らない。欲望とも違う。怒りとも違う。
もっと深くて、危うくて、抗えない何か。
(美しい)
言葉が、勝手に浮かんだ。
掃き溜めの中で生死を繰り返してきた人生で、こんな感情を抱いたことは一度もない。
泥にまみれた世界の中で、そこだけが別の光を放っている。
眩しい。痛い。目を逸らしたいのに、逸らせない。
慈悲の女神がいるのなら――きっとこのような姿をしているのだろう。
胸の奥で、何かが決定的に変わる音がした。
排除するはずだった。近づくべきではない存在のはずだった。
それなのに。
――もっと見たい。
――もっと知りたい。
――この光を、失わせたくない。
自分でも理解できない衝動が、喉元まで込み上げる。
リヒトは感情を悟られまいと息を殺し、声を押し出した。
「……こんな場所で祈る貴族がいるとはな」




