第九話:甘い贈り物は月影に沈む
直轄領の応接室は、午後の穏やかな光に包まれていた。
「エレナ様! 今日はぜひ召し上がっていただきたい物があるんです!」
弾むような声とともに、クララが軽やかに箱を差し出した。
頬をほんのり上気させ、期待に満ちた笑顔を浮かべている。
「まぁ、クララ様のご領地のお菓子ですの? 嬉しいわ」
エレナが小さく声を弾ませる。
白い皿の上には、素朴な焼き菓子が丁寧に並んでいた。ほんのりと香ばしく、優しい甘い匂いが漂う。
(ご当地お菓子だ、キタコレ!)
内心で小躍りしながら、エレナは思わず身を乗り出した。
「地元でとっても人気なんです! 朝一番に取り寄せてもらったんですよ。きっと気に入っていただけると思って!」
明るく楽しげに言葉を重ねるクララは、まるで友人に贈り物を渡す少女のようだった。
エレナが手を伸ばしかけた、その時。
「申し訳ございません、クララ様」
落ち着いた声で、マリアが一歩前に出た。
「お嬢様は朝から体調が思わしくなく、後ほど頂かせていただけますでしょうか」
柔らかく、しかしはっきりとした口調だった。
「え……?」
エレナはきょとんと目を瞬かせる。
一瞬、時間が止まったような沈黙。
「そ、そうなのですね……」
クララの声が、わずかに揺れた。
「楽しみにしていたのだけれど……残念です」
笑顔を浮かべようとして、ほんの一瞬だけ口元が歪む。
すぐに整えたはずの表情は、しかしどこかぎこちない。
「また、後日……ぜひ感想を聞かせてくださいね」
皿を引く指先が、ほんのわずかに力を失っていた。
俯きかけて、すぐに顔を上げる。
だが先ほどまでの弾む明るさは、もうそこにはなかった。
「……失礼いたします」
静かに席を下がるクララの背中から、色が抜け落ちたように見えた。
その場の空気は、穏やかなまま何事もなく流れていく。
だがマリアの胸の奥には、言葉にならない違和感が残っていた。
理由は分からない。証拠もない。
それでも、見過ごしてはならない気がしたのだ。
*
その日の夜。
「……菓子を?」
ジャックは書類から顔を上げた。
執務室の灯りは落とされ、窓の外はすでに闇に沈んでいる。
「はい。お嬢様に贈られた物です」
マリアが差し出した包みを、ジャックは静かに受け取った。
「毒の気配は?」
「感じません。ですが……胸騒ぎがいたします」
短い沈黙。
ジャックは包みを開き、焼き菓子を一つ指先で転がした。
素朴な香り。見た目も、何の変哲もない。
だが――。
「……分かった。王都へ送れ」
即断だった。
「マリアの勘は、外れない」
低い声でそう付け加える。
マリアは小さく頭を下げた。
「魔塔で鑑定させる」
その言葉と同時に、室内の灯りがわずかに揺らぐ。
音もなく、床の影がゆっくりと膨らんだ。
闇が人の形を取る。
「王都へ」
ジャックは包みを差し出した。
影は言葉を発しない。ただ、静かに受け取る。
「最速で王太子の元へ届けろ」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、影は霧のように消えた。
部屋には再び、静寂だけが残る。
ジャックは窓の外を見た。
(杞憂なら、それでいい)
だが胸の奥に残る不安は、消えなかった。
*
王都、魔塔。
夜更けの研究室に、淡い魔光が揺れている。
影が壁から滲み出るように現れた時、レオンハルトはすでに机に向かっていた。
「叔父上からか」
包みを受け取ると、即座に封を解く。
王太子の研究室は、魔塔の最上階にある。
常に研究設備が整い、あらゆる鑑定が即座に行える場所だった。
「……すぐ確認できるな」
焼き菓子を砕き、魔術式を展開する。
精密な光の陣が空中に浮かび上がった。
「……これは」
レオンハルトは眉をひそめた。
解析結果が、何度見ても変わらない。
毒。
しかも――。
「規定量を超えれば……中絶薬になる」
低く呟いた声が、静かな研究室に溶けた。
偶然の混入ではあり得ない。
調合も濃度も、意図的すぎる。
「……何が起こっている?」
椅子から立ち上がる。
「直接行く」
決断は早かった。
*
翌朝、王城。
「直轄領へ向かう許可をいただきたいのです」
王太子の言葉に、国王はゆっくりと目を細めた。
「理由は?」
「王家として看過できない疑いが生じました」
短い沈黙の後、国王は頷いた。
「よかろう」
レオンハルトは一歩進み出る。
「……陛下、もう一つお願いがございます」
静かな声が、謁見の間に響く。
「不測の事態に備え、王弟殿下に陛下の代理権限を頂きたく」
空気が張り詰める。
しばしの沈黙の後、国王は重々しく頷いた。
「発布しよう」
勅印が押される音が、重く響く。
(何も起きなければ、それでいい)
だが同時に理解していた。
(これは備えだ)
王太子は踵を返し、王城を後にする。
直轄領へ向かう馬車が走り出した。
静かに、確実に。
破滅へ近づく歯車が、回り始めていた。




