第八話:ヒロインの崩壊(クララ視点)
孤児院から戻った夜。
窓の外には、王弟直轄領の静かな灯りが広がっていた。
子ども達の笑い声。
殿下の優しい声。
そして――彼女へ向けられた、あの眼差し。
何度も何度も、頭の中で繰り返される。
胸の奥が、焼けるように痛んだ。
*
幼い頃から、ずっと隣にいた。
剣の稽古場。
書庫。
収穫祭。
直轄領の視察。
殿下――ジャックは、いつも忙しくて、厳しくて、近寄りがたい人だった。
でも、時々だけ見せる笑顔を知っているのは自分だと思っていた。
「クララ」
名前を呼ばれるだけで嬉しかった。
領地の数字を褒められた日。
水路整備が成功した日。
夜遅くまで議論した日。
並んで歩いてきた時間が、確かにあった。
いつか。
いつかきっと。
隣に立つのは自分だと、信じていた。
誰も疑っていなかった。
兄も、領民も、役人達も。
――王弟妃はクララになる。
それが、自然な未来だった。
はずだった。
*
「紹介しよう。俺の婚約者だ」
あの日の光景が、何度も何度も頭の中で再生される。
眩しいほど美しい女性。
透き通るような肌。
整いすぎた顔立ち。
そして何より。
殿下の腕に、当然のように抱き寄せられていた姿。
あの瞬間、胸の奥で何かが壊れた。
(どうして)
どうしてそんな顔をするの?
どうしてそんな声で話すの?
どうして――そんなに優しく笑うの?
あんな顔、一度も向けられたことがない。
私はずっと隣にいたのに。
ずっと支えてきたのに。
「殿下、こちらの資料ですが」
「後にしてくれ」
短い声。
視線は書類ではなく、扉の向こう。
彼女がいる方向。
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
(また)
最近ずっとこうだ。
会議中でも。
視察中でも。
食事中でも。
視線は無意識に彼女を探している。
彼女が笑えば、柔らかくなり。
彼女が困れば、即座に助け。
彼女が離れれば、不機嫌になる。
分かりやすすぎる。
痛いほど。
「殿下は本当にお変わりになりましたね」
役人の言葉に、思わず笑顔で頷く。
「ええ、とても」
笑顔は完璧だった。
昔から得意なのだ。
明るく、前向きで、誰からも好かれる顔。
ヒロインみたいだと、昔言われたことがある。
(ヒロイン)
その言葉が胸を刺す。
本物のヒロインは、もう現れている。
私じゃない。
*
晩餐の日。
彼女は会話に入れず、少し困ったように笑っていた。
本当は気付いていた。
話題が専門的すぎたことも。
昔話ばかりだったことも。
でも止めなかった。
止められなかった。
殿下との思い出を話す時間が、嬉しかったから。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
優越感を感じてしまったから。
――その結果。
殿下は彼女を連れて席を立った。
「今後は二人で食べる」
静かな声だった。
けれど、完全な拒絶。
胸が、空っぽになる。
兄は理解を示した。
でも私は、笑顔で頷くことしかできなかった。
「ごめんなさい、エレナ様」
涙が出そうだったのは、本当。
でも。
その涙の理由は――半分嘘だ。
*
夜。
一人の部屋。
鏡の前に立つ。
栗色の髪。
緑の瞳。
整った顔立ち。
誰もが褒めてくれた。
誰もが期待してくれた。
なのに。
「……勝てない」
ぽつりと零れる。
美しさも。
立場も。
殿下の愛情も。
何一つ届かない。
(どうして)
ずっと隣にいたのは私なのに。
後から来た人が、全部奪っていく。
胸の奥で、黒い感情が静かに形を持つ。
嫉妬。
悔しさ。
怒り。
そして――
憎しみ。
鏡の中の自分が、歪んで見えた。
それでも笑顔を作る。
いつもの、完璧な笑顔。
「大丈夫」
誰に言うでもなく呟く。
「私は、ヒロインだから」
その声は、もう以前と同じ響きではなかった。




