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第六話:幼なじみという距離


朝の光が、直轄領の屋敷の中庭をやわらかく照らしていた。


鳥の声。


噴水の水音。


整えられた花壇。


王都の宮殿とは違う、どこか生活の匂いがする朝だった。


「こちらです、殿下」


軽やかな声が廊下に響く。


振り向かなくても分かる。


クララだ。


「昨日お話しした帳簿ですが、今年の収穫量を反映した最新版を用意しました」


「早いな」


「殿下が来ると分かっていましたから」


くすっと笑う声。


その距離が、近い。


エレナは少し後ろを歩きながら、二人の背中を見ていた。


自然。


とても自然。


並んで歩く速度も、声の高さも、会話のテンポも。


何一つぎこちなくない。


「今年は南地区の水路が安定して、収穫量が例年より一割増えました」


「例の改修か」


「はい。殿下が三年前に計画された」


誇らしそうな声。


「結果が出てよかったです」


「現場が動いたからだ」


「殿下が無茶な目標を出したからですよ」


軽口。


ジャックが小さく鼻で笑う。


そのやり取りを見て――


(あ)


エレナの胸の奥が、ほんの少しだけチクリとした。


ほんの少し。


本当に、ほんの少し。


(この距離……)


幼なじみ。


長年の信頼。


一緒に働いてきた時間。


言葉にしなくても通じる空気。


(すごいなぁ……)


そう思う。


本心から思う。


同時に。


(ちょっとだけ……モヤ……)


自分でも驚くほど小さな感情が、胸の中に浮かんだ。



執務室に入ると、机の上には大量の書類が並んでいた。


ジャックは迷いなく席に着く。


クララはその隣に立ち、手際よく書類を並べ替えた。


「こちらが北地区。こちらが物流。こちらが市場の報告です」


「順番は?」


「緊急度順です」


「いい」


息を吸うように仕事が始まる。


エレナはソファに案内され、紅茶を受け取った。


「ありがとうございます」


侍女が下がる。


部屋の中央では、もう会話が続いている。


「この税率では来年の予算が足りない」


「冬の備蓄を増やしましたから」


「理由は分かる。だが別の補填が必要だ」


「商人組合に打診します?」


「いや、先に市場調査だ」


迷いがない。


止まらない。


(すごい……)


本当にすごい。


でも。


(完全に仕事モードだ……)


昨日の膝枕の人と同一人物とは思えない。


ぼんやり見つめていると。


「エレナ」


突然、名前を呼ばれた。


「はい!?」


びくっと顔を上げる。


ジャックがこちらを見ていた。


「退屈していないか」


「い、いえ!」


慌てて首を振る。


「お仕事、素敵だなと思って見ていました」


その瞬間。


ジャックの表情が、ふっと緩んだ。


ゆっくりと立ち上がる。


執務机の向こう側から回り込み、

迷いのない足取りでソファへ近づいてくる。


「そうか」


低く、柔らかな声。


エレナの前で足を止め、

少しだけ視線を落とす。


「よく見ているな」


そっと手が伸びた。


優しく、包み込むように。


エレナの髪に触れる。


指先が、ゆっくりと撫でる。


慈しむように。

確かめるように。


「え」


執務室。


クララとエルナーがいる。


なのに。


まるで二人きりのような眼差しで。


「いい子だ」


甘く、静かな声。


「ちゃんと待っていられる」


「!?」


思考が止まる。


クララの手が、ぴたりと止まった。


一瞬。


ほんの一瞬だけ。


空気が静止した。


「殿下」


エルナーの低い声。


「仕事中です」


「問題ない」


即答だった。


「息抜きだ」


「息抜きの種類を選んでください」


「嫌だ」


エレナの頭をもう一度撫でる。


「可愛い」


「殿下」


「事実だ」


クララは、笑っていた。


笑っている。


いつもの明るい笑顔で。


「仲がよろしいんですね」


声も明るい。


完璧な声音。


けれど。


その指先が、ほんの少しだけ震えていた。



昼休憩。


中庭のテーブルに軽食が用意された。


「ここで食べるのが殿下の定番なんです」


クララが笑う。


「子供の頃からずっと」


「懐かしいな」


ジャックが椅子を引き――


当然のように、エレナの椅子も先に引いた。


「座れ、エレナ」


自然すぎる所作。


「昔はここでよく休憩をした」


「仕事を押し付けられて逃げただけですよね?」


「違う。戦略的休息だ」


「ただのサボりです」


笑い合う。


自然。


本当に自然。


エレナはサンドイッチを持ったまま、少しだけ固まった。


(思い出共有が強い……)


幼少期。


思い出。


共通の時間。


(強い……)


ほんの少しだけ、寂しい。


その瞬間。


ジャックが皿を差し出した。


「これ」


「え?」


「好きだろう。朝から甘い物を我慢していた」


そこには、エレナの好物の甘い焼き菓子。


「どうして……」


「昨日言っていた。三回」


覚えていた。


何気ない会話。


たった一度の雑談。


全部、覚えていた。


「ほら」


包み紙を外し、食べやすいように皿へ移す。


「食べろ。冷める」


当然のように皿を置く。


そして小さく、低く。


「足りなければ全部追加させる」


(覚えてた……!)


胸が一気に温かくなる。


モヤが。


ふわっと溶ける。


その様子を。


クララは、見ていた。


ずっと見ていた。


ジャックがエレナを見る目。


触れる手。


声の柔らかさ。


全部。


全部、見ていた。


そして。


気付いてしまった。


(あ……)


自分に向けられたことのない眼差し。


昔からずっと隣にいたのに。


一度も。


一度も。


向けられたことのない目。


胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。


それでも笑う。


笑顔を崩さない。


「お口に合うといいですね、エレナ様」


明るい声。


完璧な声音。


けれどその心は――


初めて、小さくひび割れていた。


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