第三話:王弟直轄領へ(前編)
王都を出発してから半日。
馬車は緩やかな丘陵地帯へと差しかかっていた。
窓の外に広がる景色が、いつの間にか王都近郊とはまるで違うものになっている。
森は整備され、街道は広く、遠くには煙を上げる村々が点在していた。
「見えてきたな」
頭上から落ちた低い声に、エレナははっと顔を上げた。
(膝枕のまま寝てしまった……!)
慌てて起き上がろうとするが、髪に触れる指がそれを止める。
「無理に起きなくていい。もうすぐ着く」
「で、でも……!」
真っ赤になりながら姿勢を整えるエレナに、ジャックは小さく笑った。
そして窓の外を指さす。
「ここから先が王弟直轄領だ」
視線を向ける。
広がっていたのは――整然とした農地だった。
小麦畑が黄金色に波打ち、用水路が規則正しく走っている。遠くには風車、家畜の群れ、活気のある市場。
「すごい……」
思わず声が漏れた。
王都近郊の領地よりも、はるかに整っている。
「税収の八割はここから出ている」
「えっ」
さらっと恐ろしいことを言われた。
「王家直轄の穀倉地帯だ。失敗は許されない」
淡々と語る横顔は、完全に“王弟殿下”。
先ほどまで膝枕をしていた人と同一人物とは思えない。
「農業、水利、物流、治安。全部を同時に回す必要がある」
「……大変ですね」
「楽しいぞ」
即答だった。
その声音には確かな自信が宿っている。
「人が暮らし、街が育つ。成果が目に見える」
少しだけ目を細めた。
「ここは俺の城だからな」
(あ……)
その表情を見て、胸が小さく跳ねた。
(本当にこの人、仕事が好きなんだ)
やがて馬車が速度を落とす。
前方に見えてきたのは、石造りの大きな門だった。
王都の城門ほどの威圧感はない。けれど実務的で、堅牢で、隙がない。
「殿下!お帰りなさいませ!」
門前に並ぶ人影の中から、ひときわ明るい声が響いた。
馬車が止まり、扉が開く。
先に降りたジャックが、自然な動作で手を差し出した。
「エレナ」
「……はい」
手を取り、外へ降り立つ。
その瞬間。
「まぁ!この方が王弟殿下の婚約者様ですね!」
ぱっと花が咲いたような笑顔が目に飛び込んできた。
栗色の髪を揺らす、快活な女性。陽光のような雰囲気をまとっている。
背筋はまっすぐ、姿勢は美しく、服装は機能的で洗練されていた。
「クララ・フォン・シューレンブルクと申します!直轄領の運営補佐を務めております!」
明るく、はきはきとした声。
「お会いできて光栄です!」
(あ)
その瞬間。
エレナの内心で、何かがカチッと音を立てた。
(この人ヒロインだ……)
笑顔、声、雰囲気、仕事ができそう感。すべてが完璧に整っている。
正統派。王道。太陽系。
物語なら確実にヒロインポジション。
「長旅お疲れでしょう!すぐにお部屋へご案内しますね!」
くるっと振り向く仕草すら絵になる。
(眩しい……!)
完全に圧倒されているエレナの隣で、ジャックが静かに口を開いた。
「もう一人紹介しておく」
クララの後ろに控えていた青年が、一歩前へ出る。
銀縁の眼鏡、整った黒髪、落ち着いた物腰。
「エルナー・フォン・シューレンブルクです。領地の実務を担当しております」
深く丁寧な一礼。
「殿下の補佐として、今回の滞在を支えさせていただきます」
柔らかな声音だが、隙がない。
有能さが滲み出ている。
(この人は参謀タイプ……!)
瞬時に分類される。
太陽のクララ。理知のエルナー。
(配役が完璧すぎる……)
読者なら確実に思うだろう。
――あ、この二人が物語の中心人物だ、と。
だが。
ジャックは何の迷いもなく、エレナの肩を引き寄せた。
「紹介しよう。俺の婚約者だ」
一瞬、空気が止まる。
クララの瞳が大きく見開かれた。
そして次の瞬間――
「改めまして!ようこそ王弟直轄領へ!」
満面の笑顔が弾けた。
その輝きは、まるで物語の幕開けのようだった。
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### 幕間『侍女マリア視点』
クララの笑顔が弾けた、その直後。
ふわり、とエレナの背後に一歩下がって控えていたマリアが静かに視線を上げた。
エレナの横顔を見る。
蒼と薄紫の瞳が、完全に固まっていた。
唇は微かに開いたまま。瞬きすら忘れている。
(あ、これは――)
嫌な予感がした。
次の瞬間。
エレナの肩がぴくりと震えた。
(完璧ヒロイン……太陽系ヒロイン……私モブ……)
(絶対ジャック様の隣に立つべき人……)
(努力家で明るくて有能で領民に慕われてて幼なじみ……)
(勝てる要素ゼロでは……?)
目に見えない字幕が浮かんでいるかのようだった。
マリアは無表情のまま視線を逸らした。
(……お嬢様、また妄想していますね)
確信した。
この反応は何度も見てきた。
幼少期。社交界。王都の舞踏会。
美形や才女を見るたびに始まる**脳内物語暴走モード**である。
(しかも今回は重症)
ちらり、とクララを見る。
明るく、朗らかで、誰からも好かれそうな笑顔。
確かに魅力的ではある。
だが。
(殿下の視線、全く向いていませんけど)
むしろ逆。
王弟殿下の腕は、先ほどからエレナの腰にしっかり回されたままだ。
無意識に囲い込むように。
(はい、いつも通りです)
マリアは心の中で小さくため息をついた。
(後で落ち着いたら現実を説明して差し上げましょう)
その間もエレナは――
(物語始まった……ヒロイン登場した……)
一人で勝手に震えていた。




