第二話:馬車の中の蜜月(予行演習)
王都から王弟直轄領へ続く街道。鬱蒼と茂る森の中を、一台の豪華な馬車が走っていた。窓辺から差し込む陽光が、金糸の刺繍が施されたカーテンを透かし、柔らかく揺れている。
ガタン……ゴトン……
「ん……っ」
車輪が石を弾き、エレナの身体がわずかに傾いた。思わず隣のジャックの腕へ寄りかかってしまう。
(しまった……!)
慌てて離れようとした瞬間――
「そのまま凭れていろ」
低い声とともに、大きな掌が腰を包み込むように支えた。軍服越しに感じる確かな体温が、妙に意識を奪う。
「だ、だって……私、重いですし……」
俯いて距離を取ろうとするエレナに、ジャックは小さく笑った。
そして有無を言わせず、細い肩を引き寄せる。
「新婚旅行の予行演習だと言っただろう?」
耳元で囁かれた甘い声に、全身が一気に火照る。密室での“特訓”は、すでに小一時間続いていた。
「もう無理ですぅ……」
震える声が零れる。
対外的には冷徹な騎士団長――ジャック・フォン・ヴィッテルスバッハ。
だが今は、誰にも邪魔されずエレナを独占できる時間を、隠しようもなく楽しんでいた。執務室では決して見せない“男”の顔が、完全に表に出ている。
「何が無理だ?」
滑るように伸びた指先が、手首の内側――脈打つ血管を優しくなぞる。
「こういう……ゼロ距離が……恥ずかしすぎて……」
真っ赤に染まる頬を見て、ジャックの碧眼がゆっくりと細められた。
(慣れてきているな)
最初は腕一本近づけるだけで飛び退いていた彼女が、今ではこうして身を預けている。すべては計算通りだった。
この馬車は完璧な密室。
外界から遮断された、二人だけの空間。
「エレナ」
名前を呼ばれ、彼女の肩がびくりと震える。
「君が困惑しているのは分かっている」
「え……?」
「急ぎすぎたかもしれない。反省している」
思いがけない言葉に、エレナの警戒が一瞬だけほどけた。
(反省してる……? ジャック様が?)
ほっと息を吐いた、その瞬間。
「だから――まずはここから始めよう」
太腿の上で組まれていた手をそっと掬い上げ、恭しく甲へ口付けを落とす。
「きゃっ!?」
小さな悲鳴が弾ける。けれどジャックは視線を外さない。
「どうだ? これくらいなら平気か?」
「……平気じゃありませんっ!」
「そうか」
穏やかな声とは裏腹に、手は離さない。
「困った顔も愛らしいな……」
「お願い……やめてくださいぃ……」
冷静な声音の奥に、隠しきれない甘さが滲んでいた。
王弟直轄領への旅を“予行演習”と名付けた理由。
それは、この半日の行程すべてを蜜月に変えるため。
(もう膝枕くらい許してくれるかもしれない)
そう思った瞬間、エレナの力がふっと抜けた。
「……ばか」
涙を含んだ声に、ジャックの動きが止まる。
「本当に……酷い……ジャック様」
ぽとり、と涙が軍服の襟に落ちた。
その一滴を見つめ、彼の表情が静かに変わる。
「泣かせるつもりはなかった」
低く囁きながら、頬に触れる指先は驚くほど優しい。
「だが――甘やかすつもりはある」
そっと肩を抱き寄せ、耳元で囁く。
「君が慣れるまで、何度でも付き合う」
逃げ場を塞ぐ腕は強引なのに、どこまでも丁寧だった。
(最高だ)
ここまで翻弄しても、彼女は離れない。その事実が何よりの報酬だった。
馬車の揺れは相変わらず穏やかに続いている。
森の影が窓の外を流れ、密室の空気だけがやけに甘く濃かった。
肩を抱かれたまま、エレナはしばらく動けずにいた。涙はもう止まっているのに、胸の鼓動だけが落ち着かない。
「……落ち着いたか?」
耳元で落ちる低い声に、びくりと肩が跳ねる。
「は、はい……」
小さく答えると、ジャックは満足そうに頷いた。
そして――
「なら次だな」
(次!?)
嫌な予感が的中する前に、身体がふわりと持ち上げられた。
「きゃっ!?」
気付いた時には、座席の向きが変わっている。
「ここに」
ぽん、と自分の太腿を叩いた。
(まさか)
(まさかまさかまさか)
「膝枕だ」
断言だった。
「む、無理です!!」
反射的に叫ぶが、ジャックは微動だにしない。
「予行演習だと言っただろう?」
「そ、それとこれとは別です!」
「別ではない」
静かな声で言い切ると、逃げようとしたエレナの手首をそっと引いた。
「君は疲れている」
「つ、疲れてません!」
「嘘だな」
即答だった。
「朝から顔色が落ち着かない。心拍も速い」
(分かるんですか!?)
「だから休め」
優しい声音で命令される。抵抗の言葉が喉で止まった。
次の瞬間――
後頭部を支えられ、ゆっくりと倒される。
気付けば、視界いっぱいに軍服が広がっていた。
ジャックの膝の上。
完全に。
完璧に。
逃げ場ゼロ。
「……無理……」
消え入りそうな声が漏れる。
「そうか?」
髪を梳く指が、驚くほど優しい。
「俺は理想的だと思うが」
(理想的って何!?)
「より安心できるだろう?」
耳元に落ちた言葉に、心臓が跳ねた。
「ほら」
指先が頬をなぞる。
「力を抜け」
その声は命令ではなく、完全に甘やかす声音だった。
抗う力が抜けていく。
「……少しだけ、ですよ」
小さく呟くと、ジャックが静かに笑った。
「最初からそのつもりだ」
髪を撫でる手が止まらない。指先が、まるで宝物に触れるように優しい。
「エレナ」
名前を呼ばれ、見上げる。
至近距離で目が合った。
碧の瞳が、驚くほど柔らかい。
「こうしていると」
指が前髪を払い、額に触れる。
「本当に連れて帰りたくなる」
(もう連れて帰られてますけど!?)
声にならない悲鳴が胸で弾ける。
そして静かに、額に口付けが落ちた。
「早く慣れろ」
低く、甘く囁かれる。
「君が俺の隣にいることに」
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「……ずるいです」
「何がだ?」
「全部です……」
答えると、ジャックは小さく笑った。
「知っている」
指先が優しく髪を撫で続ける。
馬車は静かに揺れ続ける。
膝の上の温もりは、もう逃げられないほど心地よかった。
(もう……だめかもしれない)
そう思った瞬間、彼の低い声が落ちる。
「眠っていい」
「え……?」
「着くまで、ここにいろ」
指先が頬をなぞる。
「恋人の特権だ」
心臓が、完全に限界を迎えた。
馬車の中の予行演習は――
確実に次の段階へ進んでいた。




