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過去編⑧・「リストバンド」

老人と話したあの日から、俺は変わった。


何か特別な技術を教わったわけじゃない。

魔法みたいな近道が見つかったわけでもない。


ただ――


「選べ」


そう言われた。


自分で決めろ。

自分に従え。

それだけだった。


けれど、その言葉は不思議と俺の胸の奥に残り続けた。


俺はもう、“評価されるため”にサッカーをするのをやめた。

自分のためにやる。

自分が世界一になるためにやる。

楽しくやる。


そう決めた。


それから俺は、毎日を変えた。


練習が終わっても帰らない。

休日も家に籠らない。

ボールを抱えて、公園へ向かった。


公園の芝は、いつも少し湿っていた。

夕方になると冷たい風が吹き、木々がざわついた。

俺はその音を聞きながら、黙々とボールを蹴った。


ドリブル。

ターン。

トラップ。

パスの壁当て。


アジリティ。

ダッシュ。

切り返し。

ジャンプ。


そして、自重トレーニング。

腕立て、腹筋、スクワット。


できることは、全部やった。


食事も増やした。

胃が苦しくなるほど食べて、身体を大きくした。


苦しいのに、不思議と心は軽かった。


――俺は、前に進んでいる。


それが分かったからだ。


そして、その公園にはいつも、老人がいた。


朝。

夕方。

決まった時間に現れて、散歩をしている。


最初は偶然だと思っていた。

でもそれが“ルーティン”だと知ったとき、俺も真似するようになった。


俺の生活は、いつしか老人の歩幅に合わせて組み立てられていった。


そして俺たちは、よく話した。


学校のこと。

言葉のこと。

サッカーのこと。

人生のこと。


俺の英語は拙かったが、老人はゆっくり話してくれた。

たまに妙な言い回しをすることもあったが、なぜかそれが心地よかった。


何より、彼は俺を笑わなかった。


俺を試さなかった。


ただ、見ていた。


俺が変わっていくのを。



ある日、監督に呼ばれた。


練習試合が終わった後、汗を拭いていたときだった。


監督は俺をじっと見て、短く言った。


「Kyoya.」


俺は背筋を伸ばす。


「最近、活きが良いな」


それだけだった。


たった一言。


でも、その一言が嬉しかった。


初めて、“ここで生きていい”と言われた気がしたからだ。


俺は小さく頷いた。


「Yes.」


その瞬間、胸の奥で何かが確かに燃えた。


――俺はまだ、終わってない。



季節は巡り、フランスで過ごす時間も残りわずかになっていた。


ドイツへ行く日が近づいてきたある夕方。

いつもの公園で、老人と並んでベンチに座っていた。


空はオレンジ色で、街灯が一つずつ灯り始めていた。


俺は息を吐き、言った。


「おじいちゃん。そろそろ……お別れだね」


老人はゆっくり顔を上げて、遠くを見た。


「ああ……寂しなるのう」


しばらく沈黙が流れた。


そして、老人は小さく笑って続けた。


「ドイツはええぞい。……わしも苦労したわい」


ぼそっと呟いたその言葉に、俺は眉をひそめた。


「え? どういう意味?」


老人は、肩をすくめた。


「なんでもないわい」


そして、ポケットから何かを取り出した。


古びた布だった。

使い込まれたリストバンド。


「そうじゃ、きょうや。これ、いるか?」


「え……?」


「わしが若い頃に使っとったもんじゃ。古いが、ちゃんと洗っとる」


老人は笑いながら言った。


「やっぱ古臭いジジイの物なんか、いらんかのー?」


俺は反射的に首を振った。


「そんなことない!!」


両手で受け取った。


その瞬間、妙に胸が熱くなった。


「めちゃくちゃ欲しい。これからずっと付けてサッカーする」


老人は満足そうに目を細めた。


「ははは……そうか」


そして立ち上がり、俺の頭を軽く撫でるように手を置いた。


À bientôt, Kyoya.

(じゃあの、きょうや)


夕焼けの光の中で、老人は静かに言った。


Réalise ton rêve. Deviens le meilleur.

(夢を叶えろ。最高になれ)


俺は強く頷いた。


Oui. Je vais le réaliser. Regarde-moi bien.

(うん。絶対叶える。見ててよ)


老人は笑った。


それが最後だった。


以上で過去編は終了です。

次は全国大会編をお楽しみ下さい。

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