過去編⑥・「サッカーとは?」
フランス語で何を言っているのか、分からない。
老人は、そのままベンチに座り、俺を見てゆっくり手を振った。
――こっちへ来い、という合図。
呼ばれるままに近づくと、老人は隣の空いたスペースを指で叩いた。
俺は少し迷ってから、その隣に腰を下ろした。
老人はまた何か言った。
フランス語だ。
聞き取れない。
単語の区切りすら分からない。
俺は小さく息を吐いて、英語で言った。
「I don’t speak French.」
半年前から、親に言われて英会話だけは勉強していた。
海外赴任の話が出た頃から、嫌でも必要になると分かっていたからだ。
完璧じゃない。
それでも、日常会話くらいなら何とかなる程度には身につけていた。
すると老人は、少しだけ目を丸くして
すぐに肩をすくめ、笑った。
「Oh, sorry about that.」
そして、流れるように続けた。
「Let’s talk in English.」
俺は驚いた。
(英語、話せるのか……?)
老人は俺の顔を覗き込むようにして、問いかけてきた。
「Do you like soccer?」
「……Yes」
俺は頷いた。
そう答えるのに、なぜか少しだけ躊躇した。
老人は、俺の迷いを見逃さなかった。
「Really?」
その声が、少し低くなる。
「It doesn’t look like that.」
――心臓が跳ねた。
胸の奥を、指で突かれたみたいだった。
(見抜かれてる……)
俺は唇を噛んだ。
この人に取り繕っても意味がない。
もう、本当のことを言うしかなかった。
「今は……全然楽しくない」
言葉が、勝手に漏れた。
「このままじゃダメなんだ。
俺は……世界一にはなれない」
言った瞬間、自分の声が震えているのが分かった。
老人はしばらく黙っていた。
そして、ふっと息を吐くように笑った。
「ははは……」
その笑いは馬鹿にするものじゃない。
どこか懐かしむような、静かな笑いだった。
「わしにも、そんな時期があったのう」
老人は遠くを見るように目を細めた。
それから、俺の方へ視線を戻す。
「坊主、サッカーって何じゃと思う?」
「え……」
突然の問いに、言葉が詰まった。
(サッカーって……何だ?)
頭の中に、練習の光景が浮かぶ。
怒鳴り声。
奪われるボール。
置いていかれる自分。
俺は答えられなかった。
少しの沈黙のあと、老人はぽつりと言った。
「サッカーは殺し合いじゃ!」
その瞬間、空気が変わった。
夕暮れの公園の風が止まり、
周囲の音が遠くなった気がした。
俺は思わず息を止めた。
老人は淡々と続ける。
「ゴールが命で、ボールがナイフ。
自分の選択ひとつで、死ぬか生きるかが決まる」
胸の奥がざわつく。
背中が冷たくなる。
「……殺し、合い……?」
俺が呟くと、老人は小さく頷いた。
「じゃがの」
老人は言葉を切って、俺を見た。
「それを怖がらず、楽しめるやつだけが、
ピッチに立ち続けられるんじゃ」
(…..そんなの、サッカーじゃない)
俺は思った。
サッカーはチームスポーツだ。
助け合って、繋いで、勝つものだ。
なのに。
老人の言葉は、その常識を真っ向から壊してくる。
頭の中で、何かが軋んだ。
老人はさらに続ける。
「お前のやりたいサッカーは、何じゃ?」
(……俺のやりたいサッカー)
またも言葉に詰まった。
すると老人は、小さく笑った。
「難しく考えんでええわい」
そして、ゆっくり続けた。
「好きにやりゃええんじゃ」
俺は言葉を失った。
老人の目は、まっすぐだった。
「それに坊主が絶望するには、まだ早すぎる年齢じゃろ」
そして、最後に言った。
「選ぶんじゃ。
お前が決めろ。
ただ、それだけじゃ」
――その瞬間、気づいた。
俺は元々、サッカーが好きだった。
ただ好きで、ただ夢中で、ただ走っていた。
なのに、いつからだ。
サッカーをするたびに、俺は“居場所”を探していた。
評価されたい。
認められたい。
自分が特別でありたい。
そんなものばかりを追っていた。
自分を信じない人間が、
ピッチという戦場に立ち続けられるはずがない。
選択は、俺が決める。
俺は深く息を吸って、言った。
「ありがとう」
老人は、少しだけ目を細めた。
俺は続ける。
「俺は俺のやりたいようにサッカーをやる。
そして何より、サッカーを楽しむ!」
言い切った瞬間、胸の中の重さが少しだけ軽くなった。
まるで、
ずっと絡まっていた糸が一本ほどけたみたいに。




