過去編⑤・「老人」
帰り道。
俺は一人で歩いた。
街並みは相変わらず綺麗で、
空は高くて、夕陽は眩しかった。
でも、俺の世界だけが暗かった。
胸の奥に、黒い穴が空いたみたいだった。
(世界一……?)
(俺が?)
笑える。
ルーカみたいな奴が普通にいる世界で、
俺が世界一になれるわけがない。
その現実が、喉を締めつけた。
涙が出そうになった。
でも、泣けなかった。
泣いたところで、何も変わらない。
俺はただ、足を止められなかった。
⸻
気づけば、いつもの公園にいた。
無意識だった。
俺はボールを蹴った。
ドン、と乾いた音が響く。
止めて、蹴って、運んで、また蹴る。
でも、頭の中にはずっとルーカがいた。
あのスピード。
あの余裕。
あの理不尽。
俺はボールを蹴りながら、呟いていた。
「……勝てねえ」
声が震えた。
「勝てるわけ、ねえだろ……」
ボールを止め、膝に手をつく。
視界が滲む。
自信など、とうに崩れ去っていた。
学校でも、サッカーでも、居場所がない。
分からない言葉。
馴染めない文化。
笑われる自分。
練習後、俺はいつも一人になった。
みんなは仲間と話しながら帰っていく。
俺だけが、置いていかれる。
だから俺は、いつも公園にいた。
夕方の空は、オレンジ色に染まっていた。
街灯がひとつ、ふっと灯る。
風が芝を揺らす音がする。
土の匂いと、草の匂いが混ざって鼻に入ってくる。
ボールを蹴る。
乾いた音が、静かな公園に響いた。
ドン、という音が、心臓の鼓動みたいに聞こえた。
靴底が芝を踏みしめる感触が、妙にリアルだった。
この感覚だけが、俺を現実に繋ぎ止めていた。
誰もいない。
俺だけの時間。
ここでなら、下手でも恥ずかしくない。
ここでなら、壊れても誰も見ていない。
俺はひたすらボールを蹴った。
止めて、蹴って、運んで、また蹴る。
汗が流れる。
息が苦しくなる。
それでもやめられなかった。
サッカーだけは、俺を裏切らないと思っていたから。
でも、どこかで分かっていた。
“これを続けても、勝てないかもしれない”
その考えが、頭から離れなかった。
遠くで、犬の鳴き声が聞こえた気がした。
無意識に、そちらを見る。
だが、犬の姿は見えない。
代わりに――
一人の老人が立っていた。
最初からいたのか、途中で来たのか分からない。
気づけば、そこにいた。
背中が丸く、髪は白い。
ただ、それだけ。
でも...なぜか目を離せなかった。
老人は、俺のボールを追うようにじっと見ていた。
俺がシュートを打つたびに、何も言わず、ただ見ていた。
不気味だった。
知らない人間が、黙ってこっちを見ている。
普通なら怖い。
でも、その視線には敵意がなかった。
どちらかと言えば、懐かしむような目だった。
俺はボールを止めた。
すると老人が、ぽつりと何かを言った。
フランス語だったと思う。
何を言っているのか分からない。
単語も拾えない。
俺はただ、黙ったまま立っていた。
老人はもう一度、何かを言った。
それでも分からない。
けれど――
最後に、ひとつだけ。
なぜか、その言葉だけは聞き取れた。
いや、聞き取れたというより、意味が胸に落ちた。
「坊主……」
低い声だった。
そして、ぽつりと一言だけ言った。
「楽しそうに、サッカーしとらんのー」
俺の身体が、固まった。
言語なんて、分からないはずなのに。
その言葉は、まるで刃みたいに真っ直ぐ刺さった。
まるで俺の心の奥を、最初から知っていたみたいに。
俺は息をするのを忘れて、老人を見た。
老人は笑わない。
怒りもしない。
ただ、静かにこちらを見ているだけだった。
――この人、何者だ?
その疑問だけが、頭の中に残った。
夕焼けの空の下で、俺はボールを抱えたまま動けなくなっていた。
フランスでの二年間。
俺は壊されていくばかりだった。
でも、この瞬間だけは違った。
この老人が現れたことで、
俺の人生が何か別の方向へ動き出す予感がした。
俺はまだ知らなかった。
この“変な老人”が、
俺の未来を根本から変える存在になることを。
過去編も後半に入りました。
引き続き楽しんでもらえると嬉しいです。




