過去編④・「怪物」
試合が始まる。
最初の数分は、いつも通りだった。
激しい当たり。
速いパス回し。
一瞬の迷いで奪われるボール。
俺は必死に守って、走って、声を出した。
そしてチャンスが来た。
相手のパスが少し乱れた瞬間、
俺がボールを奪い、前へ運んだ。
右サイド。
スペースがある。
「今だ……!」
俺はドリブルで仕掛けた。
一人抜いた。
身体が軽くなる。
――いける。
そう思った瞬間。
視界の端に、黒い影が映った。
次の瞬間、肩に衝撃が走った。
「っ……!?」
身体が宙に浮いた。
まるで壁にぶつかったみたいに、
俺は簡単に弾き飛ばされていた。
芝に背中を打ちつけ、息が詰まる。
ボールは当然、奪われていた。
そしてそのボールを持っているのは――
ルーカだった。
⸻
立ち上がろうとした俺の目の前で、
ルーカは“何事もなかった”みたいに前へ進んでいく。
速い。
いや、速いというより――
異常だった。
走っているのに、余裕がある。
ボールが足に吸い付いている。
そして、相手が二人寄せた。
普通なら、潰される。
だがルーカは止まらない。
一瞬だけスピードを落とし、
次の瞬間、爆発するように加速した。
二人が置いていかれる。
まるで時間がズレたみたいだった。
「は……?」
思わず声が漏れた。
俺の知っているサッカーじゃない。
身体の使い方も、判断の速さも、
全部が別次元だった。
ルーカはそのまま中央へ切り込み、
三人目のDFの前で一度だけ足を止めた。
止めた、と思った。
次の瞬間にはもう、相手の背後にいた。
抜いた。
いや、抜いたというより――消えた。
そしてルーカは、シュートを打った。
強烈な音。
ボールがゴールネットを揺らす。
キーパーが飛んだのに、
指先すら届いていなかった。
⸻
静かだった。
ゴールが決まったのに、歓声がない。
相手チームは喜ばない。
味方チームも悔しがらない。
まるで全員が、
「まあ、そうなるよな」
そう思っているみたいだった。
ルーカはゴールを決めたのに、
表情一つ変えない。
ただ淡々と、歩いて戻っていく。
俺は立ち尽くした。
胸の奥が、冷たくなっていくのが分かった。
(……何だよ、こいつ)
(同い年だろ?)
(どうして、こんな……)
理解できない。
フランスという場所は才能で溢れていた。
でもその中でもルーカは別格だった。
努力とか才能とか、そういう言葉で説明できない。
これは、怪物だ。
⸻
試合は続く。
だが、それはもう試合じゃなかった。
ルーカがボールを持つたびに、
ピッチ全体が引き裂かれる。
パスを出せば正確すぎて奪えない。
ドリブルすれば誰も止められない。
身体を当ててもビクともしない。
俺は何度も挑んだ。
削った。
体をぶつけた。
足を伸ばした。
でも、全部無意味だった。
ルーカは倒れない。
むしろ、俺が吹き飛ぶ。
そしてルーカは、俺を見ない。
俺の存在を、最初から認識していないみたいだった。
(俺……透明なのか?)
その考えが頭をよぎった瞬間、
心臓がきゅっと縮んだ。
俺は、ここにいるのに。
戦っているのに。
この怪物にとっては、ただの空気だった。
⸻
試合が終わる。
スコアは大差だった。
俺は膝に手をついて、荒く息を吐いた。
肺が痛い。
喉が焼ける。
汗が頬を伝って落ちる。
なのに、ルーカは。
ルーカは息一つ乱さず、
汗もほとんどかいていなかった。
ただ、つまらなそうに水を飲んでいた。
その姿を見た瞬間。
俺の中で何かが壊れた。
(……俺、何してんだ)
(必死に走って、必死に食らいついて)
(それで、この差?)
努力とか根性とか、
そんなものが滑稽に思えた。
あいつは天才なんかじゃない。
天才って言葉は、まだ人間に使うものだ。
あれは――違う。
人の皮を被った怪物だ。
最初から、勝つために生まれてきたみたいな存在。
同じピッチに立っているのに、
俺だけ別の世界に放り込まれた気がした。
ルーカ・ルロワ(Luca Leroy)は“別の生き物”だった。
フランスは才能の洪水。
俺はずっと、その中でもがいていた。
だが――ルーカは、その濁流の中心にいた。




