第五章・過去編「フランスでの日々」
俺が海外に行くことになったのは、小学五年生のときだった。
親の海外赴任。
その言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になったのを覚えている。
半年くらい前から、なんとなく匂わせるように話はされていた。
でも、いざ「決まった」と言われると、現実は重かった。
海外で暮らす。
言葉が通じない場所で、学校に通い、友達を作り、生活する。
小学生の俺にとって、それは冒険じゃない。
ほとんど“恐怖”だった。
何より、日本で築いてきたものが、全部消える気がした。
友達。
慣れた教室。
いつもの道。
いつもの匂い。
それらが、強制的に取り上げられる感覚。
不安の理由はいくらでもあった。
言語の壁。文化の違い。友達との別れ。
そして、何より――自分がそこに馴染めるのかという恐怖。
だけど。
俺は、サッカーをやっていた。
海外に行くことが怖いのに、
「ヨーロッパでサッカーができる」という響きだけは、心を躍らせた。
フランス。スペイン。ドイツ。
サッカーが生活の一部になっている国。
俺は不安を押し殺して、期待にすがった。
“きっと、楽しいことが待ってる”
そう思うことでしか、自分を保てなかった。
⸻
最初の二年間、俺が住んだのはフランスだった。
飛行機のドアが開いた瞬間、空気が変わった。
日本の空港とは違う匂い。
乾いていて、少しだけ土っぽい。
肌に触れる風は冷たく、なのに妙に軽かった。
息を吸っただけで分かる。
――ああ、俺はもう、別の国に来たんだ。
空港のアナウンスはフランス語で流れていた。
早口で、抑揚が独特で、単語の区切りすら分からない。
周りにいる人たちは、それを当たり前みたいに聞き流し、歩き、笑い、会話をしている。
俺だけが止まっていた。
聞こえているのに、理解できない。
目に入っているのに、掴めない。
その感覚が、怖かった。
荷物を受け取り、空港を出ると、景色は一気に“外国”になった。
道路標識も、広告も、看板も。
読めない文字で埋め尽くされている。
建物は石造りで、どこを見ても映画みたいだった。
街並みは美しくて、空は高くて、光の色まで違う。
なのに。
俺の胸の中だけは、ずっと重かった。
綺麗な景色を見ているのに、心がまったく浮かばない。
むしろ、置いていかれている感覚が強くなる。
初めて学校に行った日。
教室に入った瞬間、ざわっと空気が動いた。
視線が集まり、言葉が飛び交う。
何を言われているのか分からない。
なのに、笑い声だけは分かった。
言葉が分からないから、悪意か冗談かすら判断できない。
ただ、笑われている気がした。
俺は、何もできずに笑った。
分かったふりをして、曖昧に頷いた。
でも、それが余計に惨めだった。
休み時間も、地獄だった。
誰かが話しかけてくるわけでもない。
助けてくれるわけでもない。
みんな、当たり前に自分たちの輪の中で笑っている。
俺はその輪の外で、ひとりだけ机に座っていた。
“ここでは、俺は異物なんだ”
その事実を、毎日突きつけられた。
それでも、俺にはサッカーがあった。
サッカーだけは、言葉が通じなくてもできる。
そう思っていた。
日本では、サッカーをしている時だけは自分が“普通”になれた。
上手いと言われた。
頼られた。
自分の居場所があった。
だから、期待していた。
サッカーなら、きっと大丈夫だって。
でも――
現実は、そんな甘いものじゃなかった。
フィジカル、スキル、アジリティ、様々な分野でレベルの違いを感じた。
フランスは才能で溢れていた。
まるで洪水のように。
そして....
ボールとは“取り合うもの”だった。
譲り合う空気なんて、どこにもない。
(あれ、俺の居場所が.....ない)
その瞬間、背中を冷たいものが伝った。
サッカーまで通用しないなら、俺には何が残る?
言葉も通じない。
友達もできない。
居場所もない。
そして、唯一の拠り所だったはずのサッカーですら――
日本の感覚とは、すべてが違っていた。
ここは、俺が知っている世界じゃない。
そう理解した時、俺は初めて本当の意味で、怖くなった。




