4.山
表に出ると、マレーナはいつも通り静かに待っていた。
「マレーナ。オルゼに戻る前に行くところが出来たわ。セリクの町よ。私はまだ行ったことないけど……マレーナならきっと行ってるよね?」
エリシュカも地図や方位磁針はもっているから指示は出せる。だけど最後はマレーナの飛行経験がものを言う。
「私のサポート、お願いね」
ウエストポーチからビスケットを二枚出してエリシュカはマレーナの口元に寄せる。さくさくという音を聞きながら鞍の後ろへ郵便鞄をくくりつけ、繋ぎ柱からマレーナを外した。
「さあ、行こう!」
背に乗ったエリシュカの声を合図にマレーナが力強く羽ばたき、宙に舞う。子どもたちが見上げる中、マレーナは低い位置でゆっくりと一度旋回し、そうして上空を目指した。
この街からだとセリクはほぼ真っすぐ南だ。だが途中にはトラートゥム山があるため、迂回しなければならない。
“トラートゥム”は高い山ではないが、裾に広がる森には多くの生き物が住む生命の山だ。加えて竜の生息地としても知られている。
郵便竜は今でこそ人工孵化が主流だが、かつては野生竜を捕らえて慣らすのが一般的だった。トラートゥムの周辺でも多くの竜が捕獲されたと聞く。
野生の竜が見られるとなるとエリシュカだって寄ってみたくなるが、比較的おとなしいとはいえ野生の竜は危険だし、なによりオルゼの郵便屋にとってトラートゥム山は“近寄ってはならない場所”だ。
(だから、絶対にトラートゥムへは行かない)
エリシュカは南東へ進路を取った。
今も風は北西のままだ。良い追い風になってくれる。これで速度と距離を稼ぎ、トラートゥム山を過ぎたあたりで西に折れたらいい。
計算は完璧だった。
飛行は順調だったし、マレーナの反応も冴えている。彼女は自ら風をつかむように高度を調整して飛び、その上でエリシュカの細かな指示にも正確に応じてくれる。
もしかするとマレーナも今回の郵便の重要さを理解しているのかもしれない。竜はとても賢い生き物だし、加えてマレーナは長く郵便竜として勤めているのだから。
(順調、順調!)
これなら問題なくセリクの町に到達できる、と思ったときだった。
急に風が変わった。谷間から突発的な気流が吹き上がる。
黒銀の翼があおられる。
「――っ!」
鞍から浮き上がりかけたエリシュカは、風に飛ばされないようマレーナの背に伏せた。マレーナも必死のようだ。風圧で翼を折らないよう動かしながらなんとか姿勢を保とうとしている。ごうごうという音ばかりがする中、エリシュカは必死に手綱を握って叫んだ。
「マレーナ、頑張って!」
しかし風は思ったよりも強く長く吹く。マレーナ自身もうまく身動きが取れないままひたすら風に流された。
どのくらいの時間が経っただろうか。
それでもなんとか風を抜けたらしい。馴染んだ音が戻ってきてエリシュカは安堵したのだが。
「グルァァァァ!!」
聞きなれない声を耳にしてエリシュカは身を硬くした。
今のは竜の声だ。
(竜なんてどこに?)
思った次の瞬間、エリシュカは後ろに飛ばされそうになって慌ててマレーナの体に伏せる。
また風が吹いたのかと思ったのだがどうやら違う。
(マレーナ?)
今までにない速度でマレーナが飛んでいるのだと分かるには、しばらくの時間が必要だった。
(もしかして今の声もマレーナなの? でも、どうして急に? なにが――)
伏せたままマレーナの頭の横から前方の風景を目にしたエリシュカは息をのむ。
(嘘!)
見えているのは、広い緑の森と灰色の山影。――トラートゥム山だった。
慌てて方位磁針に目をやると、今いる場所は想定よりもずっと西だ。どうやらかなり風に流されてしまったらしい。
「だめ、マレーナ! 戻って!」
エリシュカは歯を食いしばり、精一杯の力を籠めて手綱を引いた。マレーナも一度は応じるように翼を動かそうとしたが、すぐに首をトラートゥム山方面へ巡らせ、強く羽ばたいていく。
エリシュカの背が粟立った。
マレーナはオルゼ郵便局で十五年ほど郵便竜として勤めている。
一方、この十五年の間で郵便局員は三回変わった。
三人が三人とも、怪我をきっかけにした引退だった。
『竜の郵便屋』だって事故は起きる。悪天候の中を行こうとして失敗したり、寒さに凍えて落ちたり、そうでなくとも先ほどのように突発的な風が吹いたりといった具合にだ。しかし無事故のまま何十年も勤めあげる竜使いがいる一方、同じ竜に乗った竜使いが十五年で三人も怪我で引退するのは過去にも例のないことで、そして全員が口を揃えてこう言った。
「トラートゥム山付近でマレーナが制御できなくなって怪我をした」
ほかの場所では問題がない。ただ、トラートゥム山に近づいたときだけ制御ができなくなったのだ、と。そして、
「あのときの恐怖を思い出すとマレーナにはもう乗れない」
と言って、三人ともオルゼの郵便局から去った。
郵便竜になるためには適性の有無が関わるし、訓練にだって時間がかかる。とても貴重な存在だ。
そのため「トラートゥム山付近を飛行しない」を条件にマレーナは継続して郵便竜を勤めているが、これ以上事故を起こせば上層部がどう判断するか分からない。
それに何より今は大事な郵便を預かっている。エリシュカは必ずセリクの町へ行かなくてはいけないのだ。
エリシュカは必死で手綱を引くが、トラートゥム山はどんどん大きくなる。
(お願い、マレーナ、やめて! 私たちはセリクへ行かなくちゃいけないの! それに、噂をこれ以上“真実”にしないで!)
マレーナが制御できなくなるのはトラートゥム山付近だけなのだが、世間では「三人の郵便屋にケガをさせた」という事実の方が強く広まっている。
いつしか郵便屋の間では「オルゼ郵便局のマレーナは乗り手に不幸を運ぶ竜だ」との言葉が囁かれるようになった。マレーナが感情を見せないということもあってそう信じている者は多い。
だけどオルゼ郵便局の歴代局員だって最初からマレーナを嫌いだったわけではないようだ。皆がマレーナに関しての記録を残してくれていることからもその片鱗が窺える。
もちろんエリシュカも穏やかで優しいマレーナが好きだけれど、マレーナはどうだろう。本当は人間が嫌いだったのか。だからこんな行動を取るのだろうか。
マレーナがぐっと高度を下げた。山裾の広大な森が目の前に広がる。
のけぞりそうになるの必死に堪え、エリシュカは全身に力を入れてマレーナにしがみついた。すべての感覚が遠のく。
――そうしてエリシュカは、耳の奥で『竜の歌』を聞いたような気がした。




