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第4話 「たぶん、世界は変わっていない」

 朝、駅へ向かう。

 空気は昨日までの雨を洗い流したように澄んでいた。


 横断歩道の手前で、足が止まる。


 あれ以来、点滅の光を見るだけで、胸の奥がざわつく。

 記憶の底から、ブレーキ音と衝撃が這い上がってくる。


 深呼吸。

 肺いっぱいに朝の冷気を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 点滅する信号は、あの日の警告色のままだ。けれど、踏み出した足は震えていない。

 恐怖よりも確かな鼓動が、私を前へと押し出していく。


 改札は空いていた。乗り換えのホームは、いつもより静か。

 電話も一回でつながった。プリンタも紙詰まりを起こさなかった。


 午前中が、無理なく終わる。

 珍しい。こんな日もあるんだな。

 まるで世界が、少しだけ私に歩み寄ってくれたような気がした。


 昼、外に出る。


 ビルの前の小さな広場に、ひだまりができていた。

 人の流れから半歩離れて、立ち止まる。


 少しだけ、目を閉じる。

 瞼の裏に、オレンジ色の暖かさを感じる。


 目を開けて、交差点のほうへ歩いた。


 あの日と同じ位置に立つ。信号の点滅が始まってから赤に変わるまでを、息の長さで測る。


 自分の歩幅なら、二歩で車線に入っている。

 あの朝、肩がぶつかって、縁石でよろけて、膝をついた数秒と、きれいに重なる。


「あのとき転んでいなかったら、事故に遭ったのは私だったかもしれない……」


 口の中で言う。喉が乾く。けれど、足は地面にしっかりと根を張っている。

 私は生きている。その事実が、静かに胸に満ちていく。


 午後一番で、人事から呼び出しがあった。


「警察対応もあるし、当面は社内調整の多い部署に移ってほしい。君が以前から転属希望を出していた部署だ」


「本当ですか! ありがとうございます」


 資料作成の比率が減る。外回りも減る。何より、ずっとやりたかった仕事だ。

 不運だと思っていた事故が、回り回って私の希望を叶えてくれた。

 運命の皮肉さに、少しだけ苦笑する。


 夕方、あの喫茶店に寄る。


 カウンターに傘を置いた。

 それは単なる雨具ではなく、あの雨の夜に私を守ってくれた、小さな屋根だった。


「お借りしていた傘を返しに来ました」


 マスターはあの日と変わらない、春の日差しのような笑顔を浮かべていた。


「その節は助かりました」


「よかった。あれから、どうですか」


 言葉は多くない。けれど、その眼差しだけで十分だった。

 ここには、言葉以上の対話がある。


 会計のあと、店を出ようとして、ふいに振り返る。


「また来ても、いいですか」


「はい、またのお越しを楽しみにしています」


 夜、ベッドに横たわる。


 点滅。金属音。赤。

 かつて私を苦しめたその記憶の断片は、もう鋭利な刃物ではない。


 その手前に、タオルの手触りと、白い湯気と、カップを置く音がある。

 温かな記憶が、恐怖を包み込んで溶かしていく。


 翌日。


 昼休み、ひだまりに腰を下ろす。


 ちゃんと温かい。

 太陽の匂いがする。


 夕方、部署異動の辞令が正式に出た。席を移る。

 新しいデスクの感触。新しい窓からの景色。


 退社後、喫茶店へ。


「今日はアイスにします」


「暑いですからね」


 コースターに水滴が円を描く。

 氷がグラスに当たる涼やかな音が、心地よいリズムを刻む。


「名前、伺っても」


「福田です。福田幸」


 一拍置いて、付け足す。


「私、ずっとこの名前が嫌だったんです。人生が思い通りにならなくて……」


「素敵な名前だと思いますよ。きっとあなたに合っています」


「私、気づいたんです。ずっと不幸だと思っていた出来事が、私を救ってくれていたことに」


 マスターは笑顔でうなずいた。その笑顔は、私の言葉を肯定し、祝福してくれているようだった。


「不幸と幸福って紙一重なんですね。ずっと気づきませんでした……」


 店を出ると、空が淡い。

 夕暮れのグラデーションが、空を優しく染め上げている。


 ビルの前の広場まで戻って、ひだまりに立つ。陽の輪郭が柔らかい。


 遠回りをした朝の道や、足止めの直後の音や、あの日の雨が、同じ道の上にきちんと並ぶ。

 すべては、ここへ辿り着くための布石だったのだ。


 ささやかでも、順番が見える。


 深く息を吸って、ゆっくり吐く。

 肺の中の空気が、新しいものに入れ替わる。


「たぶん、世界は変わっていない」


 声に出す。

 私の声が、夕暮れの空に溶けていく。


「ほんの少しずつでも、世界の見方を変えていこう」


 見上げれば、空はどこまでも淡く、高い。

 足元に落ちる陽だまりは、私の名前と同じ形をしていた。


 ひだまりは、前からそこにあった。ただ、私が見ていなかっただけだ。

 世界はずっと、こんなにも眩しい場所で私を待っていたのだから。

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