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第3話 「お疲れのようですね」

 今日は朝から、警察署という名の無機質な箱の中にいた。


 会議室ほどの広さの部屋に、長机が二つ。プラスチックの椅子。

 蛍光灯の白すぎる光が、部屋の隅々まで容赦なく暴き立てている。

 壁の時計の針が、乾いた音を立てて進む。カチ、カチ、カチ。その音だけが、ここが時間の流れる場所であることを主張していた。


 同じ話を、少しずつ角度を変えて尋ねられる。


「歩行者信号が点滅に変わったのは、どのタイミングでしたか」


「車の色は」


「歩行者は走っていましたか、歩いていましたか」


 見取り図に、印をつける。自分の位置。視線の向き。車の進入方向。

 思い出すたび、記憶の輪郭をなぞる線が濃くなっていく。


 昼を過ぎても、席はそのままだった。

 ペットボトルの水を半分ほど飲んでも、喉の渇きは消えない。

 手のひらに、ざらついた砂の感触が幻のように蘇る。


 夕方が近づいた頃、ようやく解放された。

 白すぎる蛍光灯の下で、時間は死んだように動かなかった。繰り返される問いかけに、自分の言葉が他人のもののように空虚に響いていた数時間。


 ビルを出ると、雨だった。


 濃い。雨粒が大きい。空気が刃物のように冷たい。

 信号の光が、濡れた路面で揺れている。


 駅までの道のりを考えて、立ち尽くした。身体が鉛のように重い。


 視界がにじみ、何が雨で、何が涙なのか、わからなくなる。


 傘はない。肩から袖へ、冷たさが容赦なく流れ込む。

 雨は慈悲なく降り注ぎ、体温を奪っていく。


 信号の下を抜けて、二つ角を曲がる。


 数十歩、雨に打たれて歩いたところで、古い並びのひさしが続く細い通りに出た。


 ひさしの切れ目ごとに雨脚が強く、靴の中まで冷える。

 世界中から拒絶されたような寒さの中で、ふと、温かな光が目に留まった。


 看板の文字が、雨に滲んで読みにくい。


 ようやく読めた。喫茶店だ。

 その店の灯りだけが、唯一許された帰場所のように、暗い雨の中に滲んでいた。


 ひさしの下で息を整えてから、ドアを押した。

 カランコロン。

 古風な鈴の音が鳴った。

 濃厚なコーヒーの香り。濡れた衣服の匂いが、自分のまわりにまとわりつく。


 カウンターの内側から、店主らしい男性が出てきた。自分と同じくらいの年だろう。

 黒いエプロン。爽やかで、春の日差しのような優しそうな笑顔。


 その笑顔を見た瞬間、喉の奥が熱くなり、視界がふっとにじんだ。

 張り詰めていた糸が、音もなく切れた。思わず、涙ぐむ。


「ひどい雨ですよね。タオルをどうぞ」


 差し出された白いタオルを受け取り、顔と髪を押さえた。

 タオルの白さと、向けられた眼差しの柔らかさ。その温度に触れた瞬間、胸の奥で凍りついていた何かが、音を立てて崩れ落ちた。

 目の縁が熱い。


「温かいの、出しましょうか。うちはコーヒーが自慢なんです」


「お願いします」


 カップから立ちのぼる湯気で、呼吸がゆっくり戻っていく。

 指先の冷えが、少しずつほどける。


「お疲れのようですね」


「少し……」


 必要以上は、話さなかった。話す言葉が、まだ見つからない。

 ただ、この温もりだけで十分だった。


 窓の外で、雨脚がさらに強くなった。アスファルトの上を、白い筋が走る。


 会計のとき、店主がカウンターの下からビニール傘を一本取り出した。


「よければ、これを持っていってください。返すのはいつでもいいので」


「お借りしても、いいんですか」


「ええ。びしょ濡れで帰られるほうが、こちらも気になりますから」


 傘の柄が、手に吸い付くように合った。透明なビニール越しに、街の光が歪んで見える。


「ありがとうございます。必ず返しに来ます」


 ドアを出る。鈴の音。雨の音。


 駅までの道のりで、さっきまで張り詰めていた胸の奥が、少しだけ緩むのがわかった。

 手の中にある傘が、小さなシェルターのように私を守ってくれている。


 帰宅して、玄関に傘を立てる。濡れた服を洗濯機に放り込み、膝に新しい湿布を貼った。


 布団に入ると、また事故の光景が浮かんできた。点滅の信号。伸びるブレーキ音。

 いつまでこんな日が続くのだろうか。


 目を閉じる。


 明日、傘を返すときの挨拶を考える。うまく言える気がしなかったが、言葉が出なくても、あの扉は開くだろうと不思議に思えた。

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