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第2話 「今日も、何一つ予定通りに進まなかったな……」

 翌日、通勤途中の横断歩道の手前で、世界が傾いだ。

 正面から走ってきた誰かの肩がぶつかり、反射的に一歩下がる。その拍子に、縁石が足首を絡め取った。


「痛い!」


「あ、大丈夫ですか!?」


「はい、なんとか……」


 掌に、冷たい砂の感触が食い込む。膝がじんと熱を持ち、遅れて鋭い痛みが脳髄を走った。


 顔を上げると、歩行者信号が点滅を始めていた。

 無慈悲な光の明滅。


 渡れない。

 2日連続で遅刻確定だ……。


 キキー、ズドン!


 その瞬間、大気を切り裂くようなブレーキ音と、鈍く重い衝突音が重なった。

 それは、人間が物体として弾き飛ばされる、決定的な破壊の音だった。


 幸の目の前で、点滅に焦って走り出した歩行者が、進入してきた車に撥ね上げられ、路面に叩きつけられた。

 車は減速さえしなかった。エンジン音を荒げ、そのまま角を曲がっていく。残されたのは、遠ざかるテールランプの赤い残像だけ。


 ひき逃げ!?


 無機質なアスファルトに、鮮烈な赤が地図を描いていく。

 排水溝のほうへ、細い筋になって流れていくその液体は、あまりにも生々しい。

 白いシャツに赤が滲み、鉄錆のような生臭い匂いが風に乗って鼻腔を突いた。


「大丈夫ですか!」


 呼びかけてみるが、返事はない。

 呼吸の有無だけを確認し、動かさないよう周囲に伝える。


 幸は震える指でスマートフォンを操作し、119に通報した。

 普段、会社では叱られてばかりの自分が、なぜか今は冷静に、テキパキと動けている。

 その事実に、ふと奇妙な感覚を覚えた。

 遅刻の正当な理由ができたからかもしれない。そんな冷めた思考が、頭の片隅をよぎる。


 サイレンが近づき、救急隊が処置を始める。ほぼ同時に到着した警察官が、黄色い規制線を張り巡らせた。


「通報者の方はどなたですか?」


「私です」


 幸が名乗り出た。


 歩行者信号が点滅に変わったタイミング、歩行者と車の位置、車が逃走した方向。

 網膜に焼き付いた映像を、言葉に変換して並べる。

 別の警察官が同じ内容をもう一度確認する。救急隊からも、事故の様子について改めて尋ねられる。


 現場見取り図に、自分の位置と視線の方向、車の進行矢印を書き込む。

 ナンバーの一部、車の色、車種の形状、テールランプの形、逃走方向。

 記憶の断片を拾い集め、指差しながら言葉を紡ぐ。


 同じ質問が繰り返される。時計を見る余裕などない。喉が張り付くように乾く。

 さっき転倒した際の膝の痛みが、立ちっぱなしの足元からじわじわと這い上がってくる。


 テープの外側から、野次馬のざわめきが波のように押し寄せる。

 サイレンの余韻と、ブレーキの金属音が、耳の奥に居座って離れない。


 会社に電話を入れる。


「交差点でひき逃げに遭遇して、警察対応にあたっています。出社は昼過ぎになります」


「状況が落ち着いたらでいい。到着見込みがわかった時点で連絡を」


 正午が近づいて、ようやく解放された。

 警察官と連絡先を交換し、後日あらためて事情聴取があると告げられる。


 昼食をとり、やっと出社したのは午後一時すぎとなった。


「福田、来たか。大変な目に遭ったようだな……」


 伊藤部長が顔を上げた。その表情には、いつもの苛立ちはなく、少しの同情が混じっているように見えた。


「はい。後日、警察から再度の聴取があるそうです」


「わかった。今日のプレゼンは山田に切り替えた。できる範囲でいいから、フォローと引き継ぎをよろしくな」


「はい。ご迷惑をおかけします……」


 山田が軽く手を振ってきた。


「あとは任せてよ。今日はそれどころじゃないでしょ」


「うん。ありがとう……」


 席に着くと、掌の擦過傷がキーボードに触れてひりついた。

 午後はメール整理と山田への引き継ぎだけを進める。警察から、後日の聴取依頼の電話が入った。


 定時で退社する。


 帰宅して、膝に湿布を貼った。


 布団に入っても、あの音と匂いが消えない。

 長く伸びるブレーキ音。かすれる悲鳴。点滅から赤に変わる光が、閉じた瞼の裏で執拗に瞬く。

 路面を広がっていく赤い色。掌に残る、ざらついた砂の感触と鉄の匂い。


 体を横にして、壁のほうを向く。


 接触。転倒。間に合わなかった信号。衝突音。通報。救急。警察。午後出社。


「今日も、何一つ予定通りに進まなかったな……」


 独り言は、暗い部屋の底へと沈んでいった。

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